塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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本初子午線をゆく
Part II 東京編

(2002年4月27日訪問)


東京市街略図 ゴールデンウィークの帰省がてらに、京都から東京へ移ったあとの本初子午線の旧跡を訪ねてみることにした。夜行バスで大阪から揺られ続けること8時間。眠い目をこすりながらたどり着いた東京駅から、子午線行脚東京編をスタートした。

日本経緯度原点

 東京都港区麻布台2丁目18番1。ロシア大使館の裏手の一角に、その地籍がある。

 丸の内線から日比谷線に地下鉄を乗り継ぎ、神谷町という駅から地上に出る。

 桜田通りを南に下り、飯倉交差点を右に折れると、坂の上にすぐロシア大使館の長塀が見える。お巡りさんの立つ警備ボックスが大使館の周囲を固めていて、ちょっと近寄りがたい雰囲気が漂っている。でもまぁ、まだ悪いことをしたわけではないので、気にすることはない。

 大使館の塀沿いの細い筋に入って、2分ほど歩くと、右手に「日本経緯度原点」の看板が見えてくる。

 東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572。

 ちょっと半端で覚えようのない数字なのだが、これが日本の測量の原点なのだ。

 実はここ、かつては東京天文台(現・国立天文台)があった場所だった。天文台の中でも位置天文学に使う「子午環」という望遠鏡があったのがこの地点。花崗岩の台座にはめ込まれた金属標に刻まれた十字の交点が、子午環の中心点だったという話。

 子午環は子午儀ともいうのだが、南北方向にしか鏡筒が動かない構造になっていて、正確に方位を合わせて建設・設置し、天体の子午線通過時刻を測定するためだけに使われる望遠鏡のこと。位置天文学には欠かせない観測器で、明石の子午線を天体測量で測定したときも、京都大学の観測班が可搬式のものを添え付けて用いている。古写真を見ると東京天文台にあったものはレンガで台座を築いた相当大型の機材だったようだ。

日本経緯度原点

日本経緯度原点

 東京天文台はやがて三鷹へ移転するのだが、そのきっかけとなったのは1923(大正12)年の関東大震災。地震で大破した天文台は、都内の空が明るくなってきたこともあり、現地での復旧をあきらめて郊外へ転出。この間、1918(大正7)年9月の文部省告示によって東京天文台子午環の位置を日本の経緯度原点に定めていたのだが、原点だけは陸軍陸地測量部が引き継ぎ、現在も国土地理院の管理下に置かれている。

 2002年2月から3月にかけて周囲の整備が行われ、現在は小公園のような雰囲気になっている。原点の周囲は石畳が敷かれているが、辺りを歩いていると草むらの中にレンガ片がいくつも転がっている。もしかしたら東京天文台時代の子午環の名残なのかもしれない。拾って帰ろうかと思ったが、そのうち文化財の調査対象になるかも知れないと思って、止めておいた。もっとも大正時代の天文台跡が考古学の調査対象になるには、相当の年月が必要だろう。

一等三角点「東京」

 経緯度原点の東に合同庁舎があり、その奥の草地に一等三角点「東京」がある。現在は生い茂る木と建ち並ぶビルで、ほとんど見通しが取れず、三角点として役に立っているのかどうか、不安になってしまう。

 草地の中の盛り土の上にコンクリートの蓋をされた三角点標石が置かれていて、ちょっと蓋の中を覗いてみたら、花崗岩らしき標石の頭部だけが顔を覗かせていた。何やら視線を感じたのでよく下を見ていると、どこから忍び込んだのか、手のひらほどもあるウシガエルが標石の脇に鎮座していて、うらめしそうにこちらを見上げている。どうやら長めの冬眠の眠りを覚ましてしまったらしい。申し訳ないので、蓋を閉じて早々に退散することにした。

<旧本初子午線>
工部省観測課・内務省地理局測地課旧跡(ホテルオークラ)

ホテルオークラ

霊南坂から見上げるホテルオークラ

 麻布台から路地をたどり、虎ノ門の西端に出る。六本木との境界となるこの地域にはスペインとスウェーデンの大使館が軒を連ねていて、緑の多い町並みが続く。

 やがて交差点の向かいに見えてきた中華風の建物は大倉集古館。1917(大正6)年に開館した美術館で、民間のものでは日本最古という。その向こう一帯がホテルオークラとなっているのだが、実はここが1874(明治4)年に工部省観測課が置かれた場所だった。工部省観測課は後に内務省地理局となり、一部の地図の上ではここが本初子午線にされたという。明治以降、最初の本初子午線である。もっとも現在ホテルオークラの周囲にはそれを示すものは何も残っていない。

 この辺りは北の霊南坂・東の江戸見坂を登りきった台地の頂上になる。司馬遼太郎の「街道をゆく」の「赤坂散歩」の巻で、この霊南坂の景色が紹介されている。

 「右手のアメリカ大使館の白塀に対し、左手は清朝建築によく見られるような黄土色の堅牢な塀で、好対照をなしている。」

 とあるが、今ではホテルオークラの黄土色の壁は一面の蔦で覆われていて、若葉の緑一色で彩られていた。江戸期の赤坂界隈や明治期の大倉喜八郎屋敷に想いを馳せながらこの道をたどった司馬遼太郎も、その間の一時期ここに天文台が在ったことについては、何一つ触れることなく別の路地へと足を進めている。

 後に東京天文台の置かれた麻布台もそうだが、東京の天文台は台地の端のような地形がお好みらしい。霊南坂を登りながらホテルオークラを仰ぎ見ると、何やらかつて丘の上に観測所が置かれていた景色が浮かび上がってくるような気がしないでもない。

日本水準原点

 千代田区永田町1丁目にある憲政記念館。その前庭の一角に、日本水準原点が置かれている。

 ホテルオークラからは1.5kmほどの道のりだが、地下鉄もバスもない路程なので、そのまま歩いていくことにした。

 途中、首相官邸や国会議事堂の周囲を通ることになる。首相官邸は前日(2002年4月26日)に旧官邸が役目を終え、ガラス張りの新官邸と対照的なコントラストをなしていた。前日のニュースで二・二六事件など旧官邸をめぐる昔の映像をたっぷり見ていたので、野次馬根性で門前から中をうかがっていたら、若いお巡りさんに呼び止められて、職務質問されてしまった。夜間の天体観測でも警察に呼び止められた経験は皆無なのだが、こんな所で不審者扱いされるとは……もちろん無罪放免されたが、そのまま官邸を一周して、もう一度門前から建物の写真を撮ってやった。今度は何もいわれなかったが、そのまま国会方面に歩き抜けるときも、あちこちにいる警備の警察官にジロジロ見られたから「怪しい奴」と連絡が飛んだのかも知れない。もともと緊張感のない顔つきなので、何かを企むような奴には見えようもないと思うのだけど……

旧首相官邸 最高裁判所 国会議事堂

旧首相官邸

最高裁判所

国会議事堂

 国会議事堂を半周して、参議院の前にある憲政記念館の前庭へ向かう……が、庭の門は閉ざされたまま。掲示を見ると、開園は午前9時からなのだという。夜行バスで6時に東京駅に着いていたので、ここまで歩いてきてもまだ8時20分ほど。時間つぶしに三宅坂の最高裁判所まで足を伸ばしてみた。別に最高裁に用事はないのだが、内閣・国会と来れば、公民で習った三権分立を地で見ておきたくなるのが人情である。もちろん最高裁の中に入れるわけもなく、門の前で写真だけ撮って帰ってきた。ついでなので国会の写真も撮ってみた。3枚並べると教科書みたい。

日本水準原点

日本水準原点

 そうこうしているうちに9時をまわり、ようやく日本水準原点にたどり着くことが出来た。実は水準原点本体は石造の頑丈そうな蔵に収められていて、現物を見ることは出来ない。ただ収納庫自体が都の文化財に指定されていて、小振りながらローマ建築のような、由緒ありげなつくりになっているので趣はある。なんでも水準原点の基礎は10m地下の岩盤まで掘り下げているらしい。地下鉄有楽町線がほぼ真下を通っているのだが、工事の前後に渡って監視を続けても、ほぼ影響はなかったそうである。ちなみに1909(明治42)年の地図を見ると、この場所には陸軍陸地測量部が建っている。なるほど、そんな由来がある訳か。

 水準原点は経緯度の測定とは直接関わりないのだが、測量を行う上での重要な基準であることには変わりないので、表敬訪問した。訪問するのに一番手間がかかってしまったが。

<旧本初子午線>
内務省地理局旧跡(江戸城天守台)

 現在はホテルオークラとなっている旧溜池葵町に置かれていた内務省地理局は、1882(明治15)年に江戸城本丸に移転した。天文台は天守台(天守閣の土台)に設けられ、この新しい天文台を経緯度の零点とした。江戸城天守台は築後200年で、堅牢・安定な地盤が観測の適地と見込まれたのである。

江戸城天守台

江戸城天守台
(左側角に「本丸」三角点がある)

三等三角点「本丸」

三等三角点「本丸」
(写真中央の蓋の下)

 江戸城天守台は、現在皇居東御苑となっている。もともと1638(寛永15)年に完成した五層の天守閣が建てられていたが、1657(明暦3)年の振袖火事で焼失。以後、天守台のみ復旧されたが、ついに天守閣は再興されなかった。

 皇居東御苑は大手門・平川門・北桔橋門の3ヶ所からしか入ることが出来ず、それを知らずに国会前の水準原点から歩いてきた私は、桜田門をくぐり、二重橋を横目に皇居外苑をひたすら歩き抜け、坂下門・桔梗門に跳ね返され、2km以上も皇居廻りを歩かされる羽目になった。景色は悪くないのだが、朝6時からえんえん4時間歩き続けて、さすがに疲れてくる。

 大手門をくぐって、三の丸跡にある休憩所で、思わずいったんへたり込んでしまった。

 天守台への道も素直でない。何せかつての将軍居城の三の丸・二の丸・本丸を経巡るのだ。姫路城のような緻密な複雑さはないが、門も坂も規模が大きい。天守台に至るまで、最低1kmは歩かなければならない。ただかつての番所跡の建物や門の石垣が随所に残り、散歩していて飽きることはない。

 本丸跡には忠臣蔵で知られる松の廊下の跡もある。もっとも石碑があるだけなので当時を忍ぶよすがもないが、先に進むと大奥跡なんてのもあったりして、なんだか時代劇の登場人物になったみたいだ。その大奥跡の芝生の向こうに、天守台がある。

 天守台は高さ18m。石を加工してぴっちり隙間なく積み重ねる切り込みはぎと言う手法で組み上げられている。頂上まで階段で上ることが出来、この界隈の地面では一番高い場所になるのではないだろうか。この天守台がかつて天文台が置かれていたという場所。明治初期の本丸は火事で丸焼けの広場になっていて、当時は大都会といえども電気もなかった時代だから、光害も少なく観測にはそれほど不自由しなかったに違いない。

 天守台の南東の隅に、三等三角点「本丸」がある。安全柵の外側なので近づくことは出来ないが、石垣の上にちょこんと蓋が乗っているので、離れていてもそれと知ることが出来る。これが一時の本初子午線……かとも思ったのだが、三角点があるのは石垣の縁で、とても大がかりな観測機器を設置できるような場所ではない。小型の子午儀を置いたにしても、暗闇で一歩間違えば人間の方が18m下に真っ逆さまに落ちかねないので、三角点自体はおそらく後日測量のために設置したものなのだろう(後で調べたら1902(明治35)年の設置だった)。

 一時はここが日本の本初子午線だったわけだが、現在それを示すものは、何も残っていない。1882(明治15)年、この天守台の経緯度が各府県に告示されたが、わずか2年後の1884年、ワシントンで万国測地会議が開かれ、イギリスグリニッジ天文台を本初子午線に定めることが決められ、日本も1886(明治19)年に勅令でこれを制定。かくして本初子午線は19世紀の終わりにグローバルスタンダード化され、日本国内から姿を消してしまうのだった。同時に東経135度子午線が日本標準時子午線として定められ、やがて明石が「時のまち」として知られるようになるのである。

 本初子午線から日本標準時子午線へ。江戸城天守台は子午線の移り変わりを見守った、東京最後の旧跡地である。

 ここまでの歩行距離約12km。北桔橋門から東御苑を出て、ほんとは九段下まで歩こうと思っていたのだけど、なんだか足が重くなって、少しでも近そうな竹橋駅から地下鉄に乗り込んだ。

 午後から心機一転、プラネタリウム「メガスター」の渋谷公演と、渋谷区五島プラネタリウム天文資料の星のつどいに参加した。

 ……ほんとに帰省しにきたのかどうかって? いや、ちゃんと帰りましたです、はい。たぶん。

※「訪ねてみたい地図測量史跡」山岡光治(古今書院)を参考に訪問しました。
 (追記:そのサイトがありました→日本における本初子午線(トップページはおもしろ地図と測量のページ))

(2002年4月27日訪問)

塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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