塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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遙かなり友ヶ島 (一)

(2005年2月27日訪問/2005年3月1日記)

友ヶ島に子午線が通る

友が島地図

 2002年の測量法改正で採用された世界測地系。測地経度による東経135度子午線は、それまでの日本測地系から、約250mほど東に移動しました。

 たかが250m、されど250m。この250mのおかげで大きく変わってしまったものが一つあります。

 「子午線通過日本最南端の地」

 それまで淡路島の東浦町で大阪湾に没し、そのまま太平洋へすり抜けていた子午線が、世界測地系では紀淡海峡の友ヶ島に引っかかってしまうことになったのです。なんということでしょう。1998年に出来たばかりの東浦町の「子午線通過点日本最南端の地」日時計は、わずか4年でその地位を明け渡すことになりました。そして和歌山市立子ども科学館は新たな子午線通過地であることをおごそかに宣言したのです。

 日本標準時子午線始まって以来の大騒動でした。

友ヶ島には子午線標識があった!?

 ところがどっこい、話はそれだけではありませんでした。実は友ヶ島に子午線通過を示す標識があるらしい、というのです。富山市天文台兵庫県の星の文化史のコーナー。なんと友ヶ島に子午線の標石が建っていると言うではありませんか。

 私がその話を聞いたのは2002年の夏のことでした。そうとなったら、即、調査。まずは情報源となっている『喜の国』(高城武夫著)を探します。

 インターネットで検索したところ、残念ながら神戸市立図書館の蔵書にはありません。もしかしたら明石市立天文科学館の資料に入っていないだろうか。ということで、天文科学館を訪問。しかし、こちらの資料室にも該当書籍はありませんでした。ここで収穫があったのは、著者の高城武夫さんが天文教具の開発などに尽くされた方だということを知ったこと。そしてもう一つは明石にある兵庫県立図書館の蔵書に件の『喜の国』があることを確認できたこと。学芸係長の西海さん(当時)ありがとうございました。

 職場の近所の神戸市立兵庫図書館を通じて、『喜の国』をお取り寄せ。さっと目を通すと、和歌山県の話題をふんだんに盛り込んだ郷土紹介の冊子です。友ヶ島に子午線が通っているくだりは真っ先に読みましたが、残念ながら、富山市天文台のサイトに引用されている以上の詳しい記載はありません。ただ、本の発行が1982年であることが分かり、少なくともその頃には子午線標識があったのだろうという見当が付きました。

 ただ、国土地理院発行の地形図を見る限り、日本測地系の東経135度子午線が友ヶ島を通っていないのは明らかです。1982年当時は世界測地系など話題にもなりません。それなのになぜ、友ヶ島に子午線標識があるのか。想像とともに、疑問も膨らみます。

 「実際に高城さんが見ているのだから、本人と連絡取って話を聞けばいい」と、思いました。

 しかし本のあとがきには、この『喜の国』の出版直前に、高城さんが他界されたことが記されていたのでした。つながりかけた糸が、ぷっつり途切れてしまった気分でした。

危急存亡、友ヶ島

 何はともあれ、とりあえず友ヶ島の周辺事情を調べます。

 友ヶ島は第二次大戦までは大阪湾の入口を擁する由良要塞の重要拠点として、民間人の立入が厳しく制限されていました。戦後は和歌山市の所有となり、南海電鉄が観光事業を請け負ってきましたが、2001年には観光客はピーク時の1/5まで落ち込み、2002年3月末に同社は観光事業から撤退してしまいました。

 友ヶ島への連絡船は、子会社の南汽観光が運行していましたが、これも撤退……

 って、おい、それじゃ島に渡れないよ!

 幸い地元の尽力もあって、航路だけは別会社に引き継がれて生き延びることになったそうです。よかった。(有)友ヶ島汽船……って、名前からして航路維持のためにわざわざ設立したんじゃないでしょうか。

 とにかく、友ヶ島。一筋縄では行きません。子午線標識の情報も進展がないまま、月日だけは流れていくのでした。

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(2005年2月27日訪問/2005年3月1日記)

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