福田 和昭(人文学類4年)
大粒の雨が、時折たたきつけるように落ちる中、物資を積んだトラックと共に、東名高速・名神高速を西に向かいました。大阪-神戸間の鉄道は6月下旬の阪神の開通で復旧を終えましたが、道路の方は未だあちこちに通行規制が敷かれています。名神高速尼崎IC-西宮IC間や国道2号線、同43号線は復興車両やバス以外の一般車は通行止。阪神高速神戸線は橋桁落下などの影響で通行止。六甲山脈を貫いて三宮の裏手に出る新神戸トンネルも、市街地へ向かう一般車は通ることができません。
県道を縫い合わせたように延びる一般車両の迂回路を通って、尼崎から神戸市兵庫区まで2時間以上の時間がかかりました。5月に初めて被災地を訪ねたときのドキッとするようなショックはありません。傾き崩壊した家屋やガタガタに波打った歩道、あちこちに止まっている工事用車両……被災地の風景だな、という何気ない思いが、今回神戸を訪れた最初の感想でした。
本町公園は、5月に私たちがボランティア活動に参加した避難所です。「テント村」として有名な避難所でしたが、以前より進められていた独自のプレハブ仮設の建築が終わり、すでにほとんどのテントが撤去されていました。
避難所内の日常の仕事、食事の配給やトイレの掃除などは被災者の方の当番制で運営されているようです。GW中にピークの38人を数えたボランティアも、7月6日の時点で5人まで減りました。うち2人が避難所内の土木・建築の担当、3人が被災者間の連絡会議や事務(本部)の担当という感じで仕事を進めています。
一次は主力となっていた学生ボランティアも、すっかり姿を消しました。長期間、リーダー的存在として活躍した若者も、すでに本町を去っています。ボランティアに関していえば、だいぶ静かになってしまったという印象を受けました。
テント生活を強いられていた被災者の方々も、6月20日迄にはプレハブへの移転を終えました。テント村の頃には日中、ほとんど人影のなかった公園も、自分達の生活を取り戻した(といってもまだまだこれからですが)余裕からか、バケツなどを持ってせっせと動き回る人の姿も見かけるようになりました。
1カ月半の間に、被災地は途切れることなく変化を遂げつつあります。
5月14日の夜に神戸を発って以来、ほとんど被災地の情報に触れる機会がありませんでした。私の中にある神戸のイメージは、今朝になるまで5月時点での風景で、実際に被災地に入ってみて、ようやく1カ月半の空白がなくなったという感じです。私にとっての53日間は、まるで神戸のことを意識していない時間、7月6日の前の日が5月14日になる感覚です。
しかし、当たり前のことですが、私が神戸を離れていた間も、絶え間なく、被災者の生活は続いてきました。大学で授業を受け、高畠へ援農に行き、母校で教育実習をしている間もずっとです。あと2週間余りで被災6カ月を迎えるのに、被災地の、特に底辺の現状はほとんど進歩がありません。
つくば震災ボランティア連絡会の活動の一環として、家電製品などを集めて被災地へ送る計画を立てました。その現地での受け入れ先となったのが、「阪神大震災・ちびくろ救援ぐるうぷ」です。
つくばから運び出した物資は冷蔵庫5台に洗濯機2台、炊飯器2台などで、炊飯器や2ドアの冷蔵庫は、今日の午後のうちに引き取り先が決まっていきました。直前までつくばでの収集状況が悪く、スタッフが必死で集めた物資も多かったため、一時はどうなることかと気をもみましたが、結果的にはおおむねうまく行ったと思います。
今晩はもう遅いのでここまでにします。ちびくろ救援ぐるうぷのことなどは、また後日書いてみたいと思います。
昨日に引きつづき、今日も午前中は、雨。この悪天候の中、須佐野公園では「ちびくろ救援ぐるうぷ」の物資テントの整理を行いました。ちびくろの物資テントは5〜6人用の市販のものです。何カ月使ったのか知りませんが、雨漏りがひどく、また下にきちんとスノコを敷いていなかったため、中の物資の多くが水にぬれてびしゃびしゃになっています。救援物資の鍋や食器に水がたまっていたり、段ボールがぐしゃぐしゃになっていたり、ひどいものになると缶詰めの缶が腐食して腐っているものもありました。
いくつかあるテントのうち、傷んでいる方をたたんで、丈夫な方に物を移しかえたのですが、あまり整理もされてなく、慣れた人でないと物の出し入れは難しいかな、と思いました。
兵庫区内のいくつかの仮設住宅や避難所で「お茶会」の催しが行われました。ちびくろ救援ぐるうぷでは机・ポットの貸出やお茶の準備、テント設営の手伝いをしました。
私が準備にまわったのは、湊町公園・菊水公園・他1カ所(名前失念)。うち湊町公園ではお茶会の間もずっと付き添っていました。お茶会といっても別に湯を立てて格式ばってというのではなく、避難所や仮設住宅にテントを持ち込んで、ポットに入れた麦茶をすすりつつ世間話をしようというものです。今日は7月7日。七夕にちなんで笹を持っていき、参加者に短冊に願い事を書いて吊るしてもらいました。
湊町公園の仮設は、第一次抽選当選者が3月中旬に入居したところです。戸数も20軒ほどと少なく、また入居者のほとんどが兵庫区の人達なので、人間関係もうまくいっているようです。神戸市はこれまで「市街地(の公園や学校)には仮設住宅を建てない」という方針を取っていたのですが、6月に入った前後に市街地の公園内にも仮設を建てるようになりました。須佐野公園にも3棟の「地域集合型」というタイプの仮設が建ち、3〜4日前から入居が始まっています。2階建ての建物で1フロア8室(6畳)、風呂・炊事場・トイレはフロアごとに共用になっています。1階はスロープの入口になっていて身障者の方やお年寄りで足腰の弱い方が優先的に入居し、2階は比較的体の丈夫な方が住んでいます。
私たちの運んだ家電製品は、主にこの仮設に入った人々に使われます。また引き取り先の決まらないものはちびくろの本部のテントで使われたりしています。仮設は入居が始まったばかりなので、まだ入居率も高くなく、運んだ物資もまだけっこう東屋に残っています。
ちびくろ救援ぐるうぷでは三度の食事全てを自炊でまかなっています。避難所に密着して活動をしている本町公園と違い、ちびくろは須佐野公園以外の支援(在宅ケアなど)も行っており、避難所というよりボランティアセンターに近い性格を持っています。そのせいもあってか、市から弁当の配給も受けていません。
朝食はトーストと野菜の煮物、昼食はハヤシライス、夕食は白身魚のムニエルとシウマイ。けっこうまともに物を食べています。
起床はほぼ8:00ごろで、その後朝食。ボランティアミーティングを行うのが9:00ごろ。その後仕事を各自に割り振って活動が始まります。私の場合は特に固定した仕事を持たず、適当な仕事を振られたり、また見つけたりして時間を過ごします。
昼食は今日は13:00すぎ。午後も雑用をしたり、子どもと遊んだりという活動が続きます。夕食は19:00ごろ。その後銭湯へ行き、夜は公園内のテントや保育園などに分宿します。季節がら蚊も多く、昼も夜も虫さされには悩まされます。あちこちの水たまりでボウフラでも湧いているのかもしれません。
買い物で、地下鉄(神戸高速鉄道)大開駅のそばまで行きました。5月に比べると心なしかさっぱりしたような印象と、にぎやかさを取り戻した感覚を受けます。大開駅は地下鉄ホームの天井が道路ごと崩壊した所ですが、駅を列車が通過するのが1カ月後、駅の再開は来年まで持ち越すそうです。
アフリカのアルジェリアから送られた救援物資のテントがあります。中は30畳ほどの広さがあるテントで、各避難所や仮設住宅で集会所として使われています。今までこのテントを建てていた団体が7月末で撤退するため、今日は技術を引き継ぐための「講習会」に出てきました。最も講習会といっても、西区の名谷公園のテントが傷んでいたのを、一旦解体してまた組み立てるだけなのですが。
私たちのちびくろ救援ぐるうぷの他にもいくつかのボランティア団体が参加していました。話を聞いていると5〜6人で活動しているというグループも少なくなく、どこも人手は少なくなっているようです。学生も多くはなく、ちびくろにいるのはおそらく私だけ。テントの解体組立の現場には17,8人ほどのボランティアがいましたが、私の他の学生は神戸国際大学の3人だけでした。まだ他の学校は夏休み前なので、だいたい妥当な人数かもしれません。
解体・組立を行ったテントは、パレットを敷いて畳が敷いて合ったのですが、管理が悪かったのか、どうしようもないほどかびだらけになっていました。季節がら、よほど通風・換気に気を配らないとテントの中はかなりの湿気になってしまいます。
須佐野公園でもそうなのですが、テントのまわりの排水溝も一度掘ったらそのまま放りっぱなしという感じで、全体的に手入れが行き届いていないようです。屋根もフライシートの上にブルーシートをかけるくらいでないと雨対策にはならないのですが、それもきちんとしていないところが多いようです。
ティピィというインディアンのテントが須佐野にありますが、このテントはダニが湧いて人間の寝泊まりができない状態です。煙でいぶしているのか、ティピィの中では四六時中かまの中でたき火をしています。
被災から間もなく6カ月、テントはいい加減に限界なのかな、と思います。
仮設住宅にもいろいろなタイプがあります。当初、主に郊外に建てられた普通のもの、最近になって街中に建てられている地域集合型と呼ばれる老人・身障者優先のもの。今回こちらに来てから避難所をまわっていないこともあるのですが、家を失った人々の生活の場はおおよそ避難所から仮設住宅に移ったという印象を受けています。
今日テントを建てに行った名谷公園の仮設では、ボランティアがテントを組み立てている間、一人の被災者も手伝いに来たり、声をかけに来たりしませんでした。何となく、ボランティアが勝手に来て、勝手なことをやっている、という印象を持っているような感じです。地域集合型の仮設ではお年寄りに「手伝いましょうか」と声をかけられたこともあったそうですが、さすがにお年寄りにはきつい仕事なので、気持ちだけということで断ったそうです。ボランティアと被災者の間もうまく行っている所とそうでない所があるようです。
私のいるこのボランティア団体は、震災直後は兵庫区の「ちびくろ保育園」という私立保育園で活動していました。団体の名前はここから来ています。
現在は須佐野公園の避難所はなくなり、地域集合型の仮設が3棟(48戸)と身障者のケア団体のプレハブが1棟、そしてちびくろ救援ぐるうぷのテントが5〜6張建っています。特に公園内の仮設の世話をしているわけでなく、現在は周辺に住んでいるお年寄りのケアをしたり、引っ越しの手伝いやお茶会のようなイベントの運営、「すさのこども村」と銘打った子どもの遊び場の提供などを行っています。
ボランティアは10名ほどいますが、うち6〜7名ほどは須佐野公園近辺に寝泊まりしている「筋金入り」の人々です。他は近くから通っている人、私のように遠方から長期で入っている人ですが、時期のせいもあってか、短期の人は少数です。
人数の割にはずいぶん幅の広い活動をしているという印象を受けます。活動場所もメインは兵庫区になるのでしょうが、私だけで今日一日、先のテント張りや物資の運搬で中央区から西区まで動きまわりました。東灘まで引っ越しの手伝いに行った人達もいます。他のボランティア団体とのつながりも深く、昨日のお茶会や今日のテント張りなど、共同で行う作業も少なくないようです。
このちびくろの雰囲気にもだいぶ慣れてきました。今日は空いた時間に避難所の自転車のパンクやブレーキの修理をしていました。他、子どもの遊び相手として、跳ね回っています。
昨日に引き続き、今日も晴天が続きます。雨よりはずっといいですが、とても暑い。まるで真夏のような、と思ったら、季節的にはもう夏だったんですね。
こちらに来て、初めて引っ越しの手伝いをしました。兵庫区湊川公園近くの商店街に住むおばあさんで、仮設に移る下準備だそうです。
朝、遅くなると商店街の営業が始まるため、荷物の運び出しは7:00から始めました。間もなく取り壊すという家で、間口がつぶれて戸が閉まらなくなっているほか、階段が壊れているのか、2階の荷物は窓から下ろすという引っ越しでした。
家の中は電気もつかず、割れたガラスの散乱する上を歩きながら荷物を運びます。もちろん住人の方はこれまでも避難所にいたのですが、何か、時間が1月下旬に止まってしまったかのような空間でした。
いつも食事を取っているテントと、台所に使っているテント(共に「運動会テント」と呼ばれるタイプのもの)の改装を行いました。どこぞの病院からもらってきたスチール棚を入れ、乱雑になっていた荷物を整理します。浸水のひどかった台所は、盛り土した上にパレットを敷き直しました。
私の今日の仕事はこれがメインとなりました。整理と整頓はお手の物なので(散らかすのはもっと得意だけど)、実際食堂のテントは大分きれいになりました。台所の方は他の人が中心にやっていたのですが、こちらも改装が済むと、今までがよくあんな所で料理を作っていたと思えるくらいに違います。
逆に言えば、今までこれくらいのことをする余裕もあまりなかったのかもしれません。
「こんなに晴れたんは久しぶりや」いうことで、須佐野の仮設に入っている人達を対象にお茶会を開きました。が、時間を14:00という一番暑い時間帯に設定したため、はじめは誰も来ないとみんなで暇を持て余していました。
仮設住宅に入居すると、どうしても部屋に閉じこもりがちになるそうです。テントの下のベンチの日陰でみんなといっしょにお茶を飲むだけの催しなのですが、まず外に出ること、そしてこれを機会に顔見知りになってほしいということでこういう会を設けています。
15:00を回って少し涼しくなった頃から、けっこう人が集まり始めました。須佐野の仮設は地域型のものなので、入っているのはお年寄りばかり。それも1人暮らしの人がほとんどです。カーテンの修理を頼まれて訪ねたおばあさんは、長田区の方で、7月3日まで県立兵庫高校で避難生活を送っていたそうです。元々6人家族で暮らしていたそうですが、西神(西区)の仮設に当たり、おばあさん以外の5人はそちらに移り住み、狭いからとおばあさんだけが避難所に残って暮らしていたそうです。中学生の孫は地下鉄で地元の学校に通っているそうですが、交通費が往復で1000円ほどかかるのだとか。
神戸で避難所暮らしをする人は、ついに2万人を切ったそうです。仮設住宅でのそれぞれの生活が、いまあちこちで始まっています。
須佐野公園にはちびくろの他に、仮設住宅とこの「拓人」が同居しています。名前の通り被災地の障害者の介助などを行っている所ですが、仕事の内容がら、震災以前から継続してボランティアを行っている人も多いようです。ちなみにちびくろとは全くの別団体です。
詳しい仕事内容は聞いていませんが、視覚・聴覚・肢体・精神など、様々な障害を持つ方のケアを行っているそうです。話をする機会を設けたりする他、外まわりなどの活動もしています。須佐野公園には2棟の2階建てのプレハブが「拓人」用に建てられていますが、集会所・事務所兼ボランティアの宿泊所という使い方をしているようです。
それにしても「人を拓く」とはいい名前だと思います。今日の夕方、外でボランティアの方々がバーベキューをしていたのですが、一緒に混ぜてもらい、お肉をいただいてしまいました。いろいろな人と話をし、そして考えることも多くあります。
夜空には夏の大三角、そしてアルクトゥルス。明日もまた、晴れてくれそうです。
今日で3日続きの晴天になります。アスファルトやコンクリートの多い神戸は、照り返しもきついところです。須佐野は木陰の少ない公園なので、テントの下などしか涼めるところがありません。石畳の上で作業をしていると、10分もすると頭がクラクラしてきます。地元の人によると、一番暑い時期はかげろうが立つくらいになるのだとか。
震災直後に雨後のタケノコのようにたくさんのボランティア団体ができました。が、多くは現在までに撤退、解散しています。
昨日は兵庫区ボランティアの方が、活動拠点を須佐野に移したいという相談をちびくろの代表者としていました。これまで使っていた場所が使えなくなるそうで、他に資金面でもだいぶ厳しいような話をしていました。
どこのボランティア団体も、資金には苦しんでいるようです。全国から寄せられた義援金はボランティア団体には交付されません。自前のお金や寄付、それが費えれば解散や撤退を余儀なくされます。兵庫区ボランティアの場合は、一番の出費が交通費(ガス代)と電話代だそうです。他の団体もおそらく似たような状況でしょう。遠方からの支援の場合、やはりお金がありがたいような話を聞きました。
今回の震災で全国から日本赤十字社(日赤)に送られたお金は997億円にのぼるそうです。他の所に送られた分を含めると約1600億円の義援金が被災地に寄せられたそうです。が、住宅が全壊または全焼の場合、被災者に交付されるのは現在のところ24万円(神戸市の場合)にすぎません。自治体によって多少の上下はありますが、島原や奥尻に比べてかなり少ない額であることは否めません。
日赤に集まった997億円のうち、これまでに使われたのは約40億円ほどだそうです。残りの950億円は銀行の金庫に眠っているということになります。配分が難しいなどの問題はあるのでしょうが、半年たった今でもせっかくのお金がほとんど役になっていないという状況には、被災者でない私も首をかしげざるを得ません。
湊川公園の被災者が義援金の交付を求めて役場へ交渉に行くという話があるそうですが、一朝一夕にどうというようにはならないでしょう。
そういうわけで、今度どこかで何かが起きた時、お金は日赤には送らない方が良いようです。とはちびくろのリーダーの冗談とも本気とも取れぬ弁。いずれにせよ、先に書いた通り、ボランティア団体への義援金の交付はありません。何とかならないものか、と思います。
今朝は早起きして、長田区まで自転車で足を伸ばしてみました。5月と7月でどれだけ様子が変わったか、自分の目で確かめたかったからです。
正直いって、変わりばえのないのには驚きました。もちろんプレハブの仮設店舗やガレキの撤去は増えたり進んだりしているのですが、5月の上旬と全く同じ状態の場所が予想外に多かったのです。初めて訪れたときは「進みゆく復興」というイメージを持ちましたが、復興のスピードはどうやら遅々としたものです。
帰りがけ、いくつかの小学校や公園の脇を通りましたが、未だにテント暮らしを続けている人がいるのにはショックを受けました。今回こちらに来てから、本町公園も須佐野公園もプレハブ仮設になっているので、あまりテントのことは考えなかったのですが、こうして現実を目の当たりにすると、よくぞこの梅雨を乗り切ってきたものだと改めて思わざるを得ません。
被災地の街角には、必ずブルーシートが景色の中に置かれています。周囲を見渡せばどこかに黄黒の工事のつい立てがあります。壊れた建物、ガレキ、絶えることのない工事の騒音。被災地の街角が、普通の街角になるのは一体いつになるのでしょうか。
早起きして、ちびくろでボランティアをしている仲間を長田区・兵庫区の一帯へ案内しました。神奈川の秦野から来た女性ですが、初めて見る被災地の惨状はやはりショックだったようです。
崩れたビルもガレキの山も焼け跡も、だいぶ慣れてしまった自分ですが、それが良いことなのかどうか、判断しかねます。
今日は須佐野公園近くの町工場の壁の修理に行きました。普段は一般からのこのような依頼は受けていないのですが、どうしても、ということで、一応有料ということで行くことになったものです。
話では専門の大工さんが一人いて、ボランティア2名がその手伝いということでしたが、実際は社長と従業員合わせて3名という工場で、作業も大工さんどころか社長が仕事の合間にやっているという状態でした。
道路に面して店舗兼住宅があり、その奥に鉄骨造りの工場という配置だったのが、地震で店舗が全壊し、そこと棟続きになっていた部分が野ざらしになっているという格好でした。
一見ちょっとした壁や亀裂の修理でも、専門職に頼むと数十〜数百万の工費がかかります。
(1995.7.6.-12. 神戸市兵庫区須佐野公園 ちびくろ救援ぐるうぷ)
(筑波学生教職員生協あてに毎日レポートを送っていたもの)