発見日の位置 軌道シュミレーション NASA's Near-Earth Object Program Office |
登録番号 | 3178 | 仮符号 | 1984 WA | ||||||||||||||||||||||||
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名称 | Yoshitsune (義経) | 発見日 | 1984年11月21日 | ||||||||||||||||||||||||
発見者 | 鈴木憲蔵,浦田 武 | 提案者 | 浦田 武 | ||||||||||||||||||||||||
軌道要素 | 2000.0年分点(MPCORBによる) | ||||||||||||||||||||||||||
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命名の由来となった源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の腹違いの末弟。1159(平治元)年に生まれ、その年の平治の乱で源氏が平清盛に敗れたため、僧になる条件で鞍馬寺で育てられました。のち奥州に逃れ、藤原秀衡の庇護下で成長。1180(治承4)年の源頼朝の旗揚げの際に参陣。 以後、宇治川の戦いに木曽義仲を破り、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と天才的な戦術で華々しい勝利を収め、平氏を滅亡に追い込みました。一方で武家政権の樹立を目指す兄・頼朝とは不仲となり、再び藤原秀衡を頼って奥州に下向。秀衡の死後、頼朝の厳しい追及に折れた藤原泰衡に襲われ、1189(文治5)年衣川館で自害しました。 数奇な生涯と悲劇的な死は「判官びいき」の同情を生みました。 |
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戦端が開かれたのは2月7日朝で、範頼軍は生田森(神戸市中央区)で平氏の東木戸に打ちかかり、西では熊谷直実や土肥実平が明石・塩屋(神戸市垂水区)から平氏の西城戸に攻め込みました。 一進一退の攻防が続く中、一ノ谷(神戸市須磨区)の平氏本陣を義経軍が背後から急襲。この奇襲で混乱した平氏軍は一挙に浮き足だって崩壊し、海上に逃れて屋島(香川県)への撤収を余儀なくされました。この戦で平氏は主力の武将の多くを失い、事実上の没落を決定付けられました。 義経の奇襲は「鵯越の逆落とし」として名高いのですが、実際の鵯越は神戸市兵庫区で、一ノ谷とは相当離れた場所にあります。 |
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<関連ウェブサイト・参考資料> ・鵯越の逆(坂)落とし(神戸市役所ホームページより) ・「日本の合戦 第一巻」,新人物往来社(1978) ・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990) ・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994) |