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3178 Yoshitsune (義経)
【源義経/武将・平安時代末】



1日ごと 5日ごと 10日ごと


登録番号3178仮符号1984 WA
名称Yoshitsune (義経) 発見日 1984年11月21日
発見者鈴木憲蔵,浦田 武提案者浦田 武
軌道要素2000.0年分点(MPCORBによる)
元期 2001年10月18日
平均近点角 254.20216°
平均日々運動 0.22136037° 近日点引数 241.51725°
軌道長半径 2.7064674天文単位 昇交点黄経 242.23261°
離心率 0.3836810 軌道傾斜角 6.81010°
公転周期 4.45年 標準等級 11.9等




神戸市須磨区・須磨寺にある「源義経御腰掛松」。義経がここに腰掛けて首実検を行ったといいます
 1984年11月24日に鈴木憲蔵さんと浦田 武さんによって発見された小惑星。
 命名の由来となった源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の腹違いの末弟。1159(平治元)年に生まれ、その年の平治の乱で源氏が平清盛に敗れたため、僧になる条件で鞍馬寺で育てられました。のち奥州に逃れ、藤原秀衡の庇護下で成長。1180(治承4)年の源頼朝の旗揚げの際に参陣。
 以後、宇治川の戦いに木曽義仲を破り、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と天才的な戦術で華々しい勝利を収め、平氏を滅亡に追い込みました。一方で武家政権の樹立を目指す兄・頼朝とは不仲となり、再び藤原秀衡を頼って奥州に下向。秀衡の死後、頼朝の厳しい追及に折れた藤原泰衡に襲われ、1189(文治5)年衣川館で自害しました。
 数奇な生涯と悲劇的な死は「判官びいき」の同情を生みました。
神戸市須磨区・須磨浦公園の「戦の濱」石碑。この一帯が古戦場でした
 1184(寿永3)年の一ノ谷の戦いは、現在の神戸市が主戦場となりました。一度は都落ちした平氏が再び勢力を盛り返し、福原(神戸市兵庫区)一帯を拠点に京を窺いました。これに対し源氏は源範頼を主将に西国街道を西進し、一方、義経率いる別働隊が丹波から大迂回して背後から平氏の陣を突きました。
 戦端が開かれたのは2月7日朝で、範頼軍は生田森(神戸市中央区)で平氏の東木戸に打ちかかり、西では熊谷直実や土肥実平が明石・塩屋(神戸市垂水区)から平氏の西城戸に攻め込みました。
 一進一退の攻防が続く中、一ノ谷(神戸市須磨区)の平氏本陣を義経軍が背後から急襲。この奇襲で混乱した平氏軍は一挙に浮き足だって崩壊し、海上に逃れて屋島(香川県)への撤収を余儀なくされました。この戦で平氏は主力の武将の多くを失い、事実上の没落を決定付けられました。
 義経の奇襲は「鵯越の逆落とし」として名高いのですが、実際の鵯越は神戸市兵庫区で、一ノ谷とは相当離れた場所にあります。

<関連ウェブサイト・参考資料>

鵯越の逆(坂)落とし(神戸市役所ホームページより)
・「日本の合戦 第一巻」,新人物往来社(1978)
・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990)
・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994)

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