発見日の位置 軌道シュミレーション NASA's Near-Earth Object Program Office |
登録番号 | 3686 | 仮符号 | 1987 EB | ||||||||||||||||||||||||
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名称 | Antoku (安徳) | 発見日 | 1987年3月3日 | ||||||||||||||||||||||||
発見者 | 新島恒男,浦田 武 | 提案者 | 新島恒男,浦田 武 | ||||||||||||||||||||||||
軌道要素 | 2000.0年分点(MPCORBによる) | ||||||||||||||||||||||||||
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命名の由来となった安徳天皇は、第81代天皇。1178(治承2)年に高倉天皇と平清盛の娘・建礼門院徳子の間に生まれ、1180(治承4)年にわずか3歳で即位。これにより清盛は天皇の外祖父となり、平家政権の権力基盤の礎となりました。 清盛死後、木曽義仲に破れた平氏は京都を捨てて西国へ落ち延びます。このとき6歳の安徳帝も平氏とともに都落ちし、再び京に戻ることはありませんでした。 1185(文治元)年、壇ノ浦の戦いで敗れた平氏一門とともに、関門海峡に身を沈めます。わずか8年の生涯でした。 |
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また神戸市須磨区一ノ谷に安徳天皇の内裏跡があります。1183(寿永2)年の平氏一門の都落ちの際に一時的に内裏を設けた地という説があり、現地の説明版にもこの説が記されています。一説には1184(寿永3)年の一ノ谷の戦いの際に内裏が置かれた場所とも伝えられています。南面が海、東西を深い谷に刻まれ、北面が鉄拐山の急斜面に守られたこの地は、いかにも平氏の本陣にふさわしい場所です。ただ一ノ谷合戦の際は、安徳帝内裏は船上にあったという説もあります。 |
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<関連ウェブサイト・参考資料> ・「日本の合戦 第一巻」,新人物往来社(1978) ・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990) ・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994) |