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4375 Kiyomori (清盛)
【平清盛/武将・平安時代末】



1日ごと 5日ごと 10日ごと


登録番号4375仮符号1987 DQ
名称Kiyomori (清盛) 発見日 1987年2月28日
発見者新島恒男,浦田 武提案者浦田 武
軌道要素2000.0年分点(MPCORBによる)
元期 2001年10月18日
平均近点角 28.78255°
平均日々運動 0.28378050° 近日点引数 70.42263°
軌道長半径 2.2934064天文単位 昇交点黄経 137.61559°
離心率 0.1037328 軌道傾斜角 5.86076°
公転周期 3.47年 標準等級 12.7等




神戸市兵庫区切戸町・清盛塚の脇に立つ平清盛銅像
 1987年2月28日に新島恒男さんと浦田 武さんによって発見された小惑星。
 命名の由来となった平清盛は、1118(元永元)年に平忠盛の長男として生まれました。平家の頭領として保元・平治の乱を勝ち抜き、武家として初めて公卿に列し、1167(仁安2)年には従一位太政大臣となります。一門の公卿10余人、殿上人30余人で、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた栄華を極めました。
 急激な勢力拡大の中で、やがて庇護射的立場にあった後白河法皇と対立。法皇を幽閉して強権政治に打って出ますが、反平家の機運が高まり、以仁王や源頼朝・木曽義仲の挙兵といった騒然とした世情の中で1181(養和元)年、マラリアとも言われる熱病で世を去ります。のち1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏も滅亡。「おごる平家は久しからず」の言葉通り、栄枯盛衰の一代でした。
 『平家物語』では悪役の印象の強い清盛ですが、武家政権時代の端緒を開き、大輪田泊や瀬戸内海航路修築による日宋貿易の促進など、政治家・経済家としての足跡は見逃せないものがあります。
兵庫区北逆瀬川町・能福寺にある平清盛の墓。能福寺は清盛が出家した寺
 平清盛と兵庫を結びつけたのは大輪田泊(おおわだのとまり)の存在です。中近世の兵庫津、近現代の神戸港の前身であるこの港は、古代から知られた港でしたが、承安年間(1171〜75)に平清盛が日宋貿易の拠点として整備したことにより、京都・大阪の外港としての地位を確立しました。
 後白河法皇との対立後、京都で反平家の動きが強まった1180(治承4)年6月には、福原への遷都を実施。福原は現在の神戸市兵庫区の一帯で、大輪田泊を抱えるこの地で、公家・寺社勢力にとらわれない新首都・新国家の樹立を目指したものと考えられます。
 このときの清盛の邸宅は福原北部にあり、安徳天皇を迎えて御所として使われました。現在も神戸市兵庫区に「雪御所町」の町名が残っています。
 強行に行われたこの遷都の評判は悪く、実質的な新都の造営は行われないまま、結局同年11月に京都への還都を余儀なくされます。この半年弱の間、日本の首都が神戸に置かれていたことになります。
 清盛死後の遺骨の行方については諸説ありますが、兵庫区能福寺に清盛の墓があるほか、同じく兵庫区に清盛の墓との言い伝えのあった「清盛塚」があります。

<関連ウェブサイト・参考資料>

清盛塚(神戸市役所ホームページより)
・「神戸西国街道まわり道」,神戸市都市計画局計画部まちづくり支援室(2001)
・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990)
・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994)

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