登録番号 | 4375 | 仮符号 | 1987 DQ | ||||||||||||||||||||||||
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名称 | Kiyomori (清盛) | 発見日 | 1987年2月28日 | ||||||||||||||||||||||||
発見者 | 新島恒男,浦田 武 | 提案者 | 浦田 武 | ||||||||||||||||||||||||
軌道要素 | 2000.0年分点(MPCORBによる) | ||||||||||||||||||||||||||
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命名の由来となった平清盛は、1118(元永元)年に平忠盛の長男として生まれました。平家の頭領として保元・平治の乱を勝ち抜き、武家として初めて公卿に列し、1167(仁安2)年には従一位太政大臣となります。一門の公卿10余人、殿上人30余人で、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた栄華を極めました。 急激な勢力拡大の中で、やがて庇護射的立場にあった後白河法皇と対立。法皇を幽閉して強権政治に打って出ますが、反平家の機運が高まり、以仁王や源頼朝・木曽義仲の挙兵といった騒然とした世情の中で1181(養和元)年、マラリアとも言われる熱病で世を去ります。のち1185(寿永4)年、壇ノ浦の戦いで平氏も滅亡。「おごる平家は久しからず」の言葉通り、栄枯盛衰の一代でした。 『平家物語』では悪役の印象の強い清盛ですが、武家政権時代の端緒を開き、大輪田泊や瀬戸内海航路修築による日宋貿易の促進など、政治家・経済家としての足跡は見逃せないものがあります。 |
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後白河法皇との対立後、京都で反平家の動きが強まった1180(治承4)年6月には、福原への遷都を実施。福原は現在の神戸市兵庫区の一帯で、大輪田泊を抱えるこの地で、公家・寺社勢力にとらわれない新首都・新国家の樹立を目指したものと考えられます。 このときの清盛の邸宅は福原北部にあり、安徳天皇を迎えて御所として使われました。現在も神戸市兵庫区に「雪御所町」の町名が残っています。 強行に行われたこの遷都の評判は悪く、実質的な新都の造営は行われないまま、結局同年11月に京都への還都を余儀なくされます。この半年弱の間、日本の首都が神戸に置かれていたことになります。 清盛死後の遺骨の行方については諸説ありますが、兵庫区能福寺に清盛の墓があるほか、同じく兵庫区に清盛の墓との言い伝えのあった「清盛塚」があります。 |
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<関連ウェブサイト・参考資料> ・清盛塚(神戸市役所ホームページより) ・「神戸西国街道まわり道」,神戸市都市計画局計画部まちづくり支援室(2001) ・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990) ・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994) |