登録番号 | 5238 | 仮符号 | 1990 VE2 | ||||||||||||||||||||||||
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名称 | Naozane (直実) | 発見日 | 1990年11月13日 | ||||||||||||||||||||||||
発見者 | 日置 努,早川修司 | 提案者 | 日置 努,早川修司 | ||||||||||||||||||||||||
軌道要素 | 2000.0年分点(MPCORBによる) | ||||||||||||||||||||||||||
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命名の由来となった熊谷次郎直実は、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)に1141(保延7)年に生まれました。源頼朝の挙兵の後、平氏追討戦に加わり、一ノ谷の合戦では平敦盛を討ち取るなどの武功を上げました。 1192年に所領をめぐる紛争をきっかけに出家。京都に出て法然の弟子となり、法力房蓮生と号しました。熱心に念仏修行に励み、後に故郷に帰るときも極楽浄土のある西方に背を向けることを避け、逆馬で関東へ下向したという逸話があります。その後も頼朝の浄土宗の教えを説いたり、寺院の建立を行ったりしました。1207(建永2)年、自ら予告した日に念仏を唱えながら往生したと言います。 |
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熊谷直実は源義経とともに平氏軍の背後に回りますが、一番乗りの戦功を挙げようと別行動を取り、わずか5騎で西城戸に攻撃を仕掛けました。やがて生田の森でも戦端が開かれ、西城戸にも源氏の援軍が駆けつけ、東西で一進一退の攻防が続きます。やがて義経が平氏の本陣に逆落としの奇襲をかけ、これを機に平氏軍は混乱し、敗走しました。 乱戦の中、直実は平氏の武者が沖の軍船に向かって逃げ落ちようとする姿を見つけます。一騎打ちとなって直実が武者を取り押さえ、首を取ろうと顔を見ると、わが子同様の16〜7の少年でした。直実は一度は若武者を逃がそうと思うのですが、源氏の軍勢がそばまで迫っていて、とても逃がしきれる状況ではありません。同じ討たれるならば自らの手で討ち、供養をしようと、泣く泣く首を打ち落としました。 討たれた若武者は平清盛の甥・敦盛で、笛の名手として知られていました。このくだりを記した「敦盛最後」は『平家物語』の名場面として知られています。 |
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<関連ウェブサイト・参考資料> ・熊谷直実の見た天文現象(熊谷市役所ホームページより) ・敦盛塚(神戸市役所ホームページより) ・「日本の合戦 第一巻」,新人物往来社(1978) ・「兵庫県の歴史散歩 上」,山川出版社(1990) ・「[平家物語]事典」,学習研究社(1994) |