塩屋天体観測所プラネタリウム・天文台訪問記
前のページへ戻る

善兵衛ランドへ行ってきました(大阪府貝塚市)

岩橋善兵衛作の望遠鏡

岩橋善兵衛作の望遠鏡

岩橋善兵衛を知っていますか?

 岩橋善兵衛(1756-1811)のこと、実は私、最近まで知りませんでした。

 子午線がらみで伊能忠敬のことを調べているときに、彼が天測に用いた望遠鏡を、和泉(現在の大阪府南部)の岩橋善兵衛に発注していたことを知りました。

 江戸時代にすでに望遠鏡が国産化されていたこと自体、あんがい一般には知られていない事柄なのかも知れません。ちょこっと善兵衛の生きた時代背景を調べてみました。

岩橋善兵衛の時代

日本と世界の望遠鏡の歴史

 まずは簡単な年表から。

日本 世界
    1604 オランダの眼鏡職人ザアハリアゼンが望遠鏡を発明(伝承) 。
    1608 オランダの眼鏡職人リッペルスハイが望遠鏡を製作・販売。
    1609 ガリレオ(伊)が望遠鏡を自作、翌年に木星の四大衛星や太陽黒点を発見。
    1611 ケプラー(独)がケプラー式望遠鏡を考案。
1613 セーリス(英)が徳川家康に望遠鏡を献上。    
    1615 シャイナー(独)がケプラー式望遠鏡を製作。
     1645 シルレ(独)が視野レンズを考案。
    1661 グレゴリー(英)がグレゴリー式望遠鏡を考案。
    1668 ニュートン(英)がニュートン式望遠鏡を製作。
    1672 カセグレン(仏)がカセグレン式望遠鏡を発明。
    1703 ホイヘンス(蘭)がハイゲンス式接眼レンズを発表。
    1729 ホール(英)が色消しレンズの設計に成功(1733年に製作)。
≪17世紀末から18世紀初頭に望遠鏡国産化≫    
1756 岩橋善兵衛、貝塚の魚屋に生まれる。    
    1758 ドロンド(英)が色消しレンズの特許を取る。
    1783 ラムスデン(英)がラムスデン式接眼レンズを発明。
1793 岩橋善兵衛が屈折望遠鏡を完成。    
1795 高橋至時(忠敬の師)・間重富、寛政の改暦に着手。    
1796 岩橋善兵衛、伊能忠敬の望遠鏡を製作。    
1800 伊能忠敬が蝦夷地測量を開始。    
1811 岩橋善兵衛死去。    
1822 伊能忠敬の「大日本沿海余輿地全図」完成。    
1833 国友藤兵衛(一貫斎)がグレゴリー式反射望遠鏡を製作。    
    1845 カールツァイス社(独)設立。
    1849 ケルナー(独)がケルナー式接眼レンズを発明。
    1886 アッベ(独)がアポクロマートレンズを発明。
    1918 エレフレ(独)がエレフレ式接眼レンズを発明。
    1931 シュミット(独)がシュミットカメラを発明。

参考文献:『巨大望遠鏡への道』吉田正太郎,裳華房(1995)
『貝塚市立善兵衛ランド』要覧,貝塚市(1999)
参考サイト:美星町星のデータベース
アストロフォトクラブ光学・天文の歴史
星を見る道具の工房接眼鏡図鑑

 望遠鏡の発明が17世紀の初頭で、ガリレオがそれを用いて数々の天文学的発見をしたことはよく知られています。これは意外に最近のことで、例えば大航海時代のコロンブスたちは望遠鏡なしでの船旅をしていました。

 日本人に当てはめると、南蛮好きの織田信長や豊臣秀吉は望遠鏡以前の人物です。日本で初めて望遠鏡を手にした一人が徳川家康で、1613年のことですから、望遠鏡の発明から10年も経っていません。当時の交通手段が帆船しかなかったことを考えると、異常な速さです。

 ヨーロッパではこのあと100年も経たないうちに、現在広く使われている望遠鏡の原型が出そろいます。一方、日本で望遠鏡の製作が始まるのは17世紀末から18世紀はじめにかけて。戦国時代に急速に普及した鉄砲とは大違いですが、鎖国政策が採られて西洋の文物の流入が制限されたことを考えるとやむを得ないのかも知れません。

西洋天文学の導入と善兵衛の時代

 善兵衛の活躍した18世紀後半は、日本における近代天文学勃興の時代でした。麻田剛立(1734-1799)が西洋天文学を研究し、弟子の高橋至時(1764-1804)と間重富(1756-1816)は幕府に招かれて寛政の改暦を実施。高橋至時は江戸で天文方御用となり、その門下から伊能忠敬(1745-1818)を輩出します。

 観測が重んじられる天文学ですから、望遠鏡の需要が高まったのは想像に難くありません。

 岩橋善兵衛はそんな時代の望遠鏡職人で、精度の高い本格的な望遠鏡を、数多く供給したのでした。

いざ、善兵衛ランド

東急のお下がりらしい水間鉄道の電車 帰りの車内で買った切符

水間鉄道の電車(東急のお下がりっぽい)

帰りの切符はこんなんでした

 異様に長い前置きでした。
 貝塚市は大阪府の南部にあります。難波から南海電車の急行で30分。善兵衛ランドは貝塚駅からさらに水間鉄道というローカル私鉄に揺られて15分。ここに行こうと思うまで、こんな私鉄があることも知りませんでした。途中の駅は無人駅ばかり。大阪から30分でこんなのどかでいいのでしょうか。

 善兵衛ランドは小高い丘の上にあります。上にドームがなければ大きめの公民館みたい。

善兵衛ランド

貝塚市立善兵衛ランド

 玄関を入ると右手に天体望遠鏡と竹筒の望遠鏡が並んで覗けるように置かれています。受付で記帳すると、どうやらこの日一番乗り。館の職員の方が出てきて、そのまま2階へ案内して下さいました。そのままマンツーマンで解説です。えっ、いいの?

ドームの中の60cm屈折 善兵衛の銅像

60cm反射に15cmと10cmとその他
何本もの屈折望遠鏡を同架

岩橋善兵衛銅像

 展示室だけ見るつもりだったのですが、いきなり天文台に案内されます。

 「ふだんは起動しているんですけど、今日は曇っているのでさぼっていました」

と館の方の弁。ふだんは……って、まさか毎日昼間から公開してるのかいなと思ったら、そのまさかなのだそうです。すごい。

 「これだけ使い込んでる望遠鏡って他にないんじゃないでしょうか」

 いや、私もそう思います。導入には「テレスコープトレーサー」というソフトを使っていました。自動導入ではないのだけど、星図を見ながら導入する方が、観望会の時には便利なのだとか。「ちょっと古いんですけどね」なんておっしゃってましたけど、大丈夫です。明石はまだDOSのソフト使ってますから。

 60cm反射の接眼部にはワンダーアイみたいな装置が付いていました。これのおかげでだいぶ便利になったとのこと。「昔は『あれ』を使っていたんですよ」という『あれ』をみたら、なんと車椅子ごと昇降できるリフト。観望会にここまで気合いを入れているところって、すごいですよ。建物の都合でエレベーターが付かないのが残念だと言っておられました。

善兵衛の望遠鏡

岩橋善兵衛の望遠鏡 岩橋善兵衛ですが、1756年生まれの1811年没。望遠鏡を完成させたのが1793年といいますから、37歳の時です。

 どんな光学系の望遠鏡だったかというと、シングルレンズのリレーレンズを入れて正立化ケプラー式に、接眼レンズはラムスデン式、というものだったそうです。

 当時のヨーロッパでの技術開発状況を見ると、

 善兵衛望遠鏡が完成する60年前には色消しレンズ(アクロマートレンズ)が登場しているのですが、どうやら日本には伝わっていなかったようです。

 接眼レンズも本式のラムスデンは、平凸レンズ(片面が平面の凸レンズ)2枚を向かい合わせる構成なのですが、善兵衛望遠鏡は両凸レンズが2枚で、視野レンズの方が少し長めの焦点距離になっているようです(『貝塚市立善兵衛ランド』要覧のデータより)。ラムスデンというよりは、シルレが考案した視野レンズを組み合わせた望遠鏡といったところが妥当そうです。

 これは善兵衛が遅れていたというよりは、当時日本国内に存在した望遠鏡が、全般的にその程度のものだったということなのでしょう。そもそもレンズの材料となるガラス材自体、大阪で作られるようになったのは1751年のことだとされているそうです。

参考サイト:社団法人 東部硝子工業会ガラスの起源日本におけるガラス

 異なるガラス材を組み合わせたアクロマートレンズなど、想像もつかなかったに違いありません。

善兵衛望遠鏡(善兵衛ランド所蔵) 善兵衛望遠鏡(レプリカ)

善兵衛作の望遠鏡(実物)

善兵衛作の望遠鏡(レプリカ)

 本体は漆で紙を貼り重ねた「一閑張」という手法で作られているものが多く、中には竹製のものもあります。四段伸縮式になっているものが多く、携帯に便利です。軽くて丈夫なので、この点では金属製の舶来品より好評だったというのをどこかで読んだことがあります。そういえば、現代でも紙筒製のドブソニアン式望遠鏡が活躍していますね。

善兵衛の望遠鏡の筒先絞り レンズの研磨状況の展示

善兵衛望遠鏡の筒先絞り

こちらはレンズの研磨の展示

 話が前後しますが、善兵衛望遠鏡はシングルレンズなので、色収差軽減のために口径を思いっきり絞ってあります。筒の太さが6〜7cmはあるのに、対物レンズの前に絞りがあって有効径が2〜3cmしかありません。地上用としてはともかく、天体用としてはちょっと像が暗かったでしょうね。

 もっとも伊能忠敬などは星の南中時刻の測定に使っていたので、それほど暗い星を見る必要もありませんでしたから、不便とは思わなかったかもしれません。他に観測したものといえば木星の衛星の食や日月食ですから、明るさはさほど要らないものばかり。趣味の星見とは少し違っていたのです。

 さて、善兵衛は望遠鏡のレンズも自分で研磨していました。これが日本の同時代の望遠鏡職人の中で際だっていた点だといわれています。「玉摺り」なんて言ってたみたいですから、材料は多少違っても、今とやっていることはあまり変わっていないみたいです。

展示物いろいろ

当時の測量器具など 善兵衛作「平天儀」

当時の測量器具など

善兵衛作「平天儀」

 望遠鏡以外の展示物では、伊能忠敬つながりで当時の測量器具などがいろいろ並べてあります。個人的おすすめは「垂揺球儀」レプリカ。経度差を観測するために用意した日本版クロノメーターとでもいうべき機械時計で、本物は伊能忠敬記念館所蔵の重要文化財ですが、こちらのレプリカは実際に動いている姿を見ることが出来ます。

 注目は「平天儀」。善兵衛の作品で、星座早見版というかアストロラーベというか、紙製天文シミュレーターです。星座だけでなく、月の満ち欠けや潮の満ち引きまで表示できるすぐれもの。こういうものを作るあたり、善兵衛は望遠鏡職人に留まらず、やっぱり天文家の一人でもあったのですね。

実際に覗ける善兵衛望遠鏡の復元展示 天文書籍の山の本棚

玄関脇の竹製復元善兵衛式望遠鏡

天文雑誌の山

 写真撮影を許可して下さったので、色々なものを撮ってしまいました(自然科学系の博物館ならともかく、人文系の博物館はストロボの影響などによる資料の劣化を考慮してか撮影禁止のことが多いのです)。

 玄関脇には竹筒で復元した善兵衛式の望遠鏡があります。隣に天体望遠鏡が並べてあって、見比べることが出来ます。この望遠鏡の反対側には天文工作の紙細工が棚の上に所狭しと並べてあって、その奥の本棚は天文雑誌の山でした。「SKY WATCHER」誌が創刊号から並んでいたり、「天文と気象」時代からの月刊天文が並んでいたり、もちろん天文ガイドや星の手帖、いろんな学会誌もありました。

 星の好きな人が運営されているんだなぁというのが、よく伝わってきます。

(2005.2.26訪問/2005.3.8記 福田和昭)

塩屋天体観測所プラネタリウム・天文台訪問記
このページの先頭へ戻る前のページへ戻る