塩屋天体観測所|東経135度子午線を訪ねて|子午線道中膝栗毛
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(2005年2月27日訪問/2005年4月10日記)
探して分からなかったら、人に聞いてみます。
友ヶ島唯一の港、野奈浦桟橋のそばには「友ヶ島案内センター」があります。
とりあえず桟橋まで戻って、ここで情報収集です。
え、そんなものは最初にしておけ。ごもっとも。でも島の案内板に「明石子午線」なんて書いてあったものだから、喜び勇んでさっさと灯台へ向かってしまったのです。
案内センターといっても、民家に窓口だけつけたような建物で、手前の部屋だけ事務所然としています。
中を伺ってみたのですが、灯りはついていたものの、人の気配はありません。裏手の海岸側に回ると、たき火をしているおじさんがいて、どうやら彼が案内センターに詰めている人のようでした。
子午線のことなどご存じないかも知れないと思って、訪ねてみたのですが、なんと、以前に灯台を巡回している海上保安庁の職員に話を聞いたことがあったのだそうです。ちょっとびっくり。だって友ヶ島の子午線なんて、決して世間に知られているものでもなければ、それを目当てに観光客がやってくるという類のものでもありません。……私みたいな例外もいますけど。
案内センターのおじさんによると、
「『灯台の敷地内にある噴水みたいな石の上に、子午線を示す何かが載っていた』という話を、以前、灯台の人に聞いたことがある」
というのです。
なるほど、確かに言われてみればそんな石もあった気がします。それがいつ頃からあったのかとなると、おじさんも定かではなく、いつごろ無くなったのかもよく分からないそうです。
「友ヶ島は軍事要塞だったこともあって、砲台についても、とにかく文献が残っていない。私らもいろいろ調べてはいるのだけど……」
とのこと。今ではのどか以外の何事もない島だけに、そんな話がとても意外に聞こえます。戦後60年を迎え、当時要塞に詰めていた人も、若くても80歳前後になっていて、話を聞きながら昔の様子を調べるのも年々難しくなっているとのこと。
そんなこんなで、とにかく子午線標識があったことだけは、どうやら確かなことのようです。
さぁ、再調査です。
一度足を運んだ場所だけに、今度はすぐに見当がつきました。白亜の灯台の足元にある、あの石造りのものが、どうやらそれのようです。
これが友ヶ島の子午線標識跡です。
石自体には何も文字が刻まれていないので、これだけ見たのではちょっと何だか分かりません。上面に穴が3つ開いていて、かつてここに何かが取り付けられていたことが伺えます。話によると、どうも日時計だったそうです。うーん、当時の姿も見たかったなぁ。
この子午線標識がいつからいつまであったのか、文献がほとんどないので、推測に頼るしかありません。
いつまであったか、ということに関しては、1982年に刊行された高城武夫さんの『喜の国』にこの標識の記述があることから、少なくともこの前後までは標識があったことになります。
いつから、というのが難問ですが、友ヶ島が軍事要塞だった戦前にわざわざ子午線標識を建てるというのは、ちょっと考えにくい。標識というのは誰かが見るから用を為すので、一般人が足を運ぶことのない島に建てる理由を見いだしにくいのです。
もう一つ戦前でない理由を挙げるとすると、国土地理院の前身、陸軍陸地測量部の地形図は旧日本測地系を使っているので、東経135度の子午線は友ヶ島水道の海上を通過しています。軍が管理している島で、わざわざずらした場所に標識をつくるとも考えにくい。
ということで、標識が建てられたのは戦後ではないかと思っているのですが、これもまた確証はありません。タイミングとしては明石市立天文科学館が建設された1960年以降が一つの契機です。地形図上の天文科学館は、地図上の東経135度線の東にあります。地形図を見てこれを知った誰かが、天文科学館からまっすぐ南下した線が友ヶ島を通過することに気付いたのではないか。その前の「トンボの標識」も天文科学館と同じような経度にあったわけですが、地形図に記されていなかったので、地形図の東経135度線とずれていることを知っていた人は少なかったのではないかと思います。
って、これも何の根拠もない推測です。
和歌山市子ども科学館の津村さんからは「海上保安庁は海図をつくっているから世界測地系でやってるのでは、と話をしていたことがある」というメールも頂きました。海上保安庁の海図は2000年4月から2002年3月までに世界測地系に切り替えられています。国内用途の国土地理院と違って、国際的に使用される海図を扱う海上保安庁が、以前から世界測地系の検討をしていたというのは不思議でない話です。
灯台を管理している海上保安庁に行ったら何か資料があるのかも知れませんね。
これにて2005年2月現在、国内にある東経135度子午線標識は、これで一通りです。思えば長い道のりでした。
(2005年2月27日訪問/2005年4月10日記)