塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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遙かなり友ヶ島 (五)

(2005年2月27日訪問/2005年4月1日記)

ついに友ヶ島上陸

友ヶ島上陸! 引き返す「ともがしま」号
ついに友ヶ島上陸! 去っていく「ともがしま」号。必ず迎えに来てね〜。

 2005年2月27日9:40。「ともがしま」号は沖ノ島野奈浦桟橋に接岸。

 ついに友ヶ島上陸です。

 桟橋一帯には建物もいくつか並んでいて、あまり無人島という雰囲気はありません。でも私たちを運んできた「ともがしま」号はすぐに引き返してしまって、否応なく孤島に取り残された感が盛り上がります。

桟橋近くの島の案内図 「明石子午線」の文字発見!

 上陸してまずは、状況確認。桟橋近くに島の案内図があったので、さっそくチェックします。

 まずは子午線が通っている灯台まで足を伸ばすわけですが、ここで早くも収穫。なんと案内図の灯台のそばに、堂々と「明石子午線」の文字が記されているではありませんか。

 この「明石子午線」というのがポイントです。日本測地系の東経135度子午線は島の西側(写真の案内図は北が下になっているので、西は右側)の海上を通過しているのですが、明石市立天文科学館から真南に下ると、島の一部を通過するのです。

 つまり明石の天文測量による東経135度の延長線なら、2002年の世界測地系移行前でも島にかかっていたわけです。「日本標準時子午線」ではなく、わざわざ「明石子午線」と書くあたりが、この辺の事情を考慮しているようで心憎いではありませんか。これはますます、友ヶ島に子午線にまつわる何かがあるという期待が高まります。

灯台へゆく

 一緒に上陸したみなさんはどこへ消えたのか、私一人、灯台への道を歩きます。海岸沿いの道は適度にアップダウンがあり、すぐ近くだと思っていた灯台まで歩いて30分弱かかりました。

 灯台への坂道の途中にあった案内板によると、着工は1870年、完成が1872年。イギリス人のリチャード・ヘンリープラントンの手によるものだそうです。

坂の上の友ヶ島灯台

 後で家に帰って調べたら、兵庫開港に合わせて整備されたのだとか。神戸との縁も浅くないわけです。

 さて、灯台の敷地内を当たってみたのですが、一目で子午線標識と分かるものは見あたりません。逆にアヤシイものはたくさん。石の出っ張りや何かの標石みたいなものはあちこちにあって、かえってこれと特定できるものはありません。

 それではと灯台の周囲を歩き回ります。

 ところがそこに待ちかまえていたのは……

友ヶ島第一砲台・南観測塔 友ヶ島第一砲台・北観測塔
塹壕のような石積みの通路 トーチカのような観測所

 旧日本軍の砲台跡でした。至る所に石積みやレンガや、果ては分厚い鉄板で覆われたドーム状の建造物まで。こんなに人工物だらけでは、あるかないか分からない子午線標識を探すどころではありません。

 それでもしばらく辺りを歩き回りましたが、芳しい成果もなく、いったん上陸地点の野奈浦桟橋まで撤退することにしたのでした。

 帰り道で出会ったシカの親子。もともとは人間が持ち込んだものらしいです。

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(2005年2月27日訪問/2005年4月1日記)

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