塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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本初子午線をゆく
Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

 「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

 日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

 そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>
京都改暦所旧跡(中京区西ノ京西月光町)

本能寺旧跡

本能寺旧跡

 ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

 本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

 山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

 この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

 四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

 細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお寺さんなのに、ただ一夜の出来事のおかげで、日本史から永久に消えることのない名前になってしまった。良かったのか悪かったのか……

京都改暦所跡付近

京都改暦所跡付近

 京都改暦所があったという西月光町は、現在は住宅地になっている。往時は1,500坪もあったという改暦所も、現在は跡形もない。「月光町」という町名も何やらいわくありげだが、改暦所と関係があるかとなると、あやしいものだ。

 言い伝えによれば、この西月光町にある稲荷神社の北側が改暦所の敷地だったらしい。左の写真に写っている神社の右手奥にあたる。とにかくこの辺が本初子午線が通過していたのだと、辺りの路地を走り回った。ただ、本当に何も残っていないので、往時を偲ぶにはひたすら想像力を巡らすしかない。

 江戸時代以前の国内の地図には経緯度の概念がなく、江戸時代後期の1779年に刊行された長久保赤水の「改正日本與地路全図」が、現在知られている日本最初の経緯度線入り地図である。この地図の経線は、0度とこそ記されていないものの、京都が基準になっているという。

 日本で初めて定められたと言える京都基準の本初子午線は、江戸時代を通じて使われていたが、明治に入ると東京を本初子午線とした地図が刊行されるようになった。

 遷都と共に本初子午線も東へ移り去ったことになる。

京都市道路元標

京都市道路元標

京都市道路元標

 京都改暦所跡から三条通に出て、東へ向かう。

 山陰本線のガードをくぐると、すぐにアーケード街になる。町屋の家並みよりアーケードの方が新しいはずなのだが、どことなく古びた印象を感じてしまうのが不思議なところ。

 烏丸通の交差点で信号待ちをしていたると、歩道の角にいわくありげな古びた石柱があるのに気付いた。道を渡って刻まれた文字を読んでみると「京都市道路元標」とある。

 神戸にも湊川神社の前に「兵庫縣里程元標」という石柱が建てられているが、同じような性格のものなのだろうか。

 子午線とはあまり関係のないものだけど、ちょっと気になってしまった。

京都連続殺人事件

池田屋事件旧跡 佐久間象山・大村益次郎遭難地

池田屋事件旧跡

佐久間象山・大村益次郎遭難地

 と書くと何やらサスペンス劇場みたいだが、京都を走っていると、そんな石碑ばかり目に付いてしまう。

 三条河原町から鴨川に向かう途中にいきなりパチンコ屋の前に建っているのが「池田屋騒動之趾」石碑。近藤勇がドタドタドタッと階段を駆け上がり、出てきた勤労浪士が切り捨てられて転がり落ちていくという、時代劇で有名なあの池田屋の跡である。亭主の池田屋はあの事件の時に捕まってしまって、そのせいか店はすっかり跡形もなくなっているのだが、にぎやかな音楽を流し続けるパチンコ屋がその旧跡というのが、いかにも街に歴史が染み込んでいるようで面白い。

 そのまま東に進んで高瀬川を渡るところに、「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎郷遭難之碑」がある。いずれも幕末の洋学者なのだが、いずれも過激攘夷浪士に斬られてしまった。象山は幕末、大村は明治維新後なのだが、よりによって同じ場所で凶刀を浴びてしまったのだろうか。

 朝っぱら織田信長の本能寺の跡を見ていただけに、なんだか事件現場を捜査しているような気分。

 鴨川のほとり、三条大橋の西のたもとに銅像があったので見に行くと、今度は一転、なにやら楽しげな「弥次さん喜多さん」の銅像だ。そういえば三条大橋は東海道五十三次の終着地。2人並んで、早咲きのしだれ桜の下で辺りの景色を眺めているのというのんきな姿で、像のタイトルまで「弥次さん喜多さん」と「さん」付けの大らかさである。

 暗殺地から滑稽本の終着点まで、狭い範囲になんといろんな想いが詰まっていることだ。

 ……それにしても、だんだん子午線から話が遠ざかってしまっているような。

北緯35度モニュメント

北緯35°物語

北緯35°物語

 平安京の時代から、京都の横の大通りは一条・二条・三条と順に番号が振られていた。千年以上を経た今も通りの名前は生きているのだが、度重なる戦乱で何度も街が焼けているだけに、通りの場所は必ずしも昔のままではない。また平安京では九条通が都の南端だったのだが、いつ頃出来たのか今では十条通りまである。

 今まで三条通を走ってきたが、河原町辺りで南に下って、四条通に出る。烏丸から河原町の三条通は明治期の洋館がたくさんある不思議な雰囲気の通りなのだが、四条通はうって変わって京都の東西の幹線道路。

 実はこの四条通に重なって、北緯35度線が走っている。正確には四条通の61m南なのだが、分かりやすいということなのか、四条河原町交差点の阪急百貨店の角に「北緯35°物語」と題したモニュメントがある。

 かなり人通りの多い場所なのだが、あまりに風景に溶け込んでしまっているせいか、目をとめる人はほとんどいない。わざわざ覗き込んでいるのは私くらい。ちょっともったいないような気も。

 せっかくなので、河原町通りを南下して、北緯35度線を横切ってきた。もっともあと一週間もしたら、これも世界測地系に移行して、またどこぞへとずれてしまうのだけど。

船岡山

京都市街略図

 かつての平安京は「四神相応」の地に建設されたとされている。四神とは方角を司る4つの神様で、東=青龍・西=白虎・南=朱雀・北=玄武となっている。飛鳥の高松塚やキトラ古墳の石室内にも描かれていたので、新聞などでご覧になった方も多いかも知れない。

 四神それぞれに対応する地形があって、東の青龍は大河・西の白虎は大道・南の朱雀は湖沼で北の玄武は山といった具合になる。平安京では一般に、青龍が鴨川・白虎が山陰道※1・朱雀が巨椋池(現在は干拓されて水田になっている)、そして玄武が船岡山に充てられている。

※1 京都大学教授の足利健亮氏は白虎を木嶋神社の南に伸びていた木嶋大路に、朱雀を京都南郊の横大路朱雀に比定する説を発表している。

 船岡山は標高111.89m。

 金閣寺から東に約1kmほどの場所にある、山というより丘のような隆起で、北東の麓には大徳寺の境内が広がっている。それほど高い山ではないのだが、平坦な京都盆地の中では昔は目立つ存在だったのだろう。

 平安京の中心線はこの船岡山を基準に設定され、諸官庁や天皇の住居のある大内裏が山の真南に設けられた。また大内裏から平安京の正門である羅城門まで一直線に都の中心を貫く朱雀大路も、船岡山を通る南北線上に沿って建設されている。

 言ってみれば、古代平安京の“本初子午線”がこの船岡山を通っていたわけである。もちろん日本全国の基準線ではなく、あくまで京都市街の中心線、といった役割だったのだが。

 船岡山には現在、建勲神社が建てられている。祭神は織田信長だから、比較的新しい神様といえる。表の参道は山の東側から取り付いているが、登り口から階段になっている。自転車で行ける場所まで行ってみようと地図を見ると、南側からも登る道がある。住宅地の中を迂回……したのはいいが、こちらもすぐ石段。

 人気のない階段はすぐに木々に包まれて、上に続いていく。程なく山上の神社の建物が見えてくる。

 織田信長は京都を制圧したものの、拠点は京には置かなかった。五層七階の天主を上げた安土は琵琶湖の東岸だし、安土の次に拠点と考えていたのは大阪だといわれている。中世の破壊者でもあった信長は、長年に渡って権力の奥座敷であった京と密着するのを避けていたふしがある。

 どんなつながりで船岡山にたどり着いたのかは分からないのだが、そんな信長を京都に祀っているのも何とも妙な巡り合わせのような気もする。

 この建勲神社の社殿の敷地に追いやられたかのように、南側の斜面に小さなほこらが残されている。近づいてみると「妙見社」と書かれていた。妙見とは妙見菩薩のことで、「広辞苑」によると、北極星や北斗七星を神格化した菩薩である。菩薩というと仏教めいているが、八幡神を八幡大菩薩というのと同じように、日本の神に菩薩号が付いたものだといっていい。もっともかつての神仏習合の時代には明確な区別はなかったはずだ。

 平安京の真北に北の星々が祀られているということは、もともとは船岡山にいた神は、この妙見菩薩だったのだろう。山上の敷地は信長に譲ったが、市街を見下ろす南側の斜面に落ち着いて、京都を守っているのに違いない。

船岡山三角点

船岡山山頂の三角点

 三等三角点「船岡山」は建勲神社の西150mほどの所にある。ここが船岡山の頂上だと思っていたのだが、あとでよく地図を調べてみたら、平安京の羅城門を通る南北線は、この三角点より東に3秒ほどずれていた。どうも三角点と妙見社の間が、朱雀大路の中心線となっていたようだ。

 実際は朱雀大路は幅が84mもある通りだし、船岡山自体も頂上が平らな山だから、厳密に検証するのなら、もう少し詳しい資料が必要になる。今回は深い詮索は抜きにして、ここで子午線巡りを終わりにすることにした。

 今回最初に訪れた京都改暦所を通る本初子午線は、船岡山の山頂より西に500mほど寄ったところにある。改暦所がつくられたのは1797年頃。もちろん江戸時代には朱雀大路は跡形もなくなっていて、京都の街の中心はずっと東の鴨川寄りに移っていたのだが、もし平安京建設当時の由来が伝わっていたら、船岡山を貫く線が、伊能図の本初子午線になっていたかもしれない。ちょっと茶目っ気の多い想像かもしれないけれど。

本初子午線をゆく Part II 東京編へ続く>

※今回の訪問は上西勝也さんのホームページ「三角点の探訪」の記事を参考にさせて頂きました。京都改暦所の解説はその中の測量史跡などにあります。

(2002年3月24日訪問)

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