塩屋天体観測所|東経135度子午線を訪ねて|子午線道中膝栗毛
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(2003年9月7日訪問)
それは2003年7月20日のことだった。明石市立天文科学館星の友の会の野外天体観測会。神鍋高原へ向かうバスの中。国道175号線を北上中、それを見た。氷上町朝阪の子午線標識。一瞬、目の前を横切り、過ぎ去った。
「氷上町朝阪の子午線標識」は鬼門のような存在だった。2000年8月に一時間以上も探し回って見つけられず、2001年7月にも捜索範囲を広げながら、発見できないまま探索断念。一時は亡失標識ではないかとも思ったのだが、再確認に至るまでには、一本のビデオテープの存在があった。
ケーブルテレビ明石が制作した20分ほどの番組で、国内に点在する子午線標識を訪ね歩いたもの。その中にわずか10数秒ほど、氷上町朝阪の標識が収録されていたのだった。もっとも、それだけではとても正確な場所の特定には至らない。しかし、そこはさすがに天文科学館。東経135度子午線が通る1/25,000地形図をすべて取りそろえていたのである。
10数秒のシーンを繰り返し再生しながら、画面に目を凝らす。道路のセンターラインは橙色。朝加を通る道路でオレンジのセンターラインが引かれているのは国道175号線だけだ。その道路はわずかにカーブしているように見える。しかしそれだけでは十分でない。画面には背後に写り込んでいる山があった。地形図と照合して、上手く形の合う山がないだろうか……そんなこんなで絞り込んだのは、既に何度も通過しているはずの、国道175号線のあるカーブ地点。
そうなれば「よっしゃ行ってみるか!!」となるところだが、あいにくこの氷上町朝阪は場所が悪すぎた。自動車を持っていない自分にとっては公共交通機関が頼りである。鉄道でいえばJR加古川線やJR福知山線の近くになるのだが、どちらの最寄り駅からも軽く5kmは離れている。しかもバスはない。徒歩だと往復2時間以上かかる計算になる。そうなればあとは、自転車をばらして積んで行くしかない。といっても、これだけでまるまる一日仕事だ。なかなか決心のつかないまま日にちだけが過ぎたのであった。
写っていたのはただの藪 |
冒頭の天文科学館の観測会の途中で、「そういやこのバス、たしか氷上の標識の脇を通るはずだ」と思いだした。ビデオを見ながら絞った候補地に近づくと、デジカメ片手に車窓の風景を凝視した。
「そろそろや、この辺や、もう少し先や……来たぁ!!」
なんて大声で叫ぶと周りの人にアホかと思われるので、黙っていたが、標識が確かに見えた瞬間は、ちょっと小躍りしたくなるくらいの勢いだった。もっとも肝心の写真といえば、デジカメのシャッターボタンを押してから、実際にシャッターが切れるまでのタイムラグがありすぎて、ただの藪が写っていただけだった。
これはいずれ、リターンマッチを行わねばなるまい。
氷上町朝阪の子午線標識、3度目、いや、4度目の挑戦である。
2003年9月7日、日曜日。天気は快晴。
バラした自転車を担いで、山陽本線に飛び乗る。氷上へ向かうには、尼崎まで出て福知山線に乗った方が早いのだが、自転車のような大荷物を担いで混雑した新快速に乗ろうものなら、周囲の視線がどうしても気になる。多少のんびりでも、空いてる方から向かった方が気分が楽だ。
加古川駅まで、明石で一度乗り継いで山陽本線を30分。ここから先は非電化のローカル線。原付といい勝負になるのではないかというスピードで、えっちらおっちらと単線の線路を駆け抜けてゆく。中間の西脇市駅まで31.2kmを55分。平均速度は34km/hというスローランナー。
ところがもっと大変なのがこの先である。2両だった列車は1両の単行となり、スピードも場所によっては自転車の方が速いのではないかというほどに落ちてしまう。とりあえずの目的地、船町口駅に着いたのが10:25。家を出たのが8:00だったから、2時間半もかかってしまったことになる。
自転車を組み立てて、一路向かうは氷上町。国道175号線を、一路北へ。
ここまでくればあっけないもので、7kmほどの距離を30分で走り、10:58、氷上町朝阪に到着である。
どこにあるか分かりますか? |
こんなんでした |
着いてみてびっくりしたのは、子午線標識の「惨状」だった。
標識は1mもない小さなものなのに、2m近いコンクリート擁壁の上の乗っかっている。おまけに前面は草ぼうぼう、本体にもツタが絡まって、巧妙にカモフラージュされている。これでは見落としても仕方がない。だいたい町のホームページに載っている地図より、400mも東にある上に、地図とは道路の反対側の場所に立っているのだ。これを探せというのが至難である。
こんなん書いてあって、金網を伝って行くわけには…… |
とりあえず困ったのが、写真を撮ろうにも、草とツタがじゃまで、標識の文字がまともに読める状態でない。どうしたものかと思ったが、ここは放置された文化財の保護・擁護のため、草とツタにはお引き取り願うことにした。
とりあえず擁壁の上に昇らないと作業ができないのだが、梯子代わりに近くにある金網に手をかけようとしたら、目に飛び込んできた「キケン」の文字。どうやらシカ・イノシシ避けの金網らしい。「素手でさわるな」ということで、万が一高圧電流でも流れていた日にはしゃれにならない。仕方がないので、草のつるをロープ代わりに、擁壁をよじ登る。ベリベリとツタをはぎ取り、ガッサガッサと草を引き抜く。全部抜いてしまうと降りるときに困るので、ほどほどが肝要だ。石碑の文字が見えたところで、写真を一枚。碑文と建立年月日を確認する。
面白いのは正面の碑文。「東経百三十五度線標識」はオーソドックスなのだが、地面に埋もれるかどうかという位置に「北」の文字が彫られている。碑文は西向きに彫られているので、方角とは関係なさそうだ。「北緯」の文字でも刻まれることになっていたのだろうか。
こうしてわずか15分ほどの滞在で、氷上町朝阪をあとにした。
2002年は工事中だった黒田庄町のモニュメント |
2003年はこんなんでした |
2002年に堤防工事に巻き込まれていた黒田庄町の子午線標識だが、とりあえずの工事は終わり、無事に固定されていた。もっとも案内板も何もないので、それと知らなければ「何か変わったモニュメントがあるなぁ」と通り過ぎてしまうだろう。
場所も以前と変わっているように思うのだが、かつての場所を特定できる資料がないので、なんとも言い難い。ただ角度によってはラーメン屋の看板としっかり肩を並べているので、もう少しどうにかならないものかと思った。
周辺一帯はまだまだ工事中で、防災コミュニティ何とかが建つらしい。いずれはもう少しきちんと整備されるのだろう。
やる気なさげな加古川線の時刻表 |
帰りの列車には、本黒田駅から乗車した。
西脇市以北の加古川線は、2時間に1本という、まるでやる気の感じられないダイヤである。しかも第四土曜日には昼間の殆どの列車が線路点検のため運休だという。これでも電化するというのだから不思議なものだが、まるで和田岬線のようだ。
塩屋の自宅に戻ったのは、15時を回った頃だった。
(2003年9月7日訪問)