塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて
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さまよえる子午線

移動した子午線

明石市内での測地系による子午線の移動地図

 日本測地系、世界測地系、天文測量それぞれの東経135度子午線を、明石市付近の模式図に表すと、上図のようになります。

 日本測地系の東経135度子午線は、当初は神戸地裁明石支部の付近を通過していましたが、1918年に経緯度原点に経度-10.4秒の修正が加えられたため、西に約267m移動することになりました。その後は2002年に至るまで、ここが東経135度子午線となっており、現地では明石市役所や神戸大学付属明石小学校などの敷地を通っています。

 2002年4月より導入された世界測地系の東経135度子午線は、日本測地系の子午線より約260m東側を通っています。

 世界測地系にも、国際地球回転事業で定めたITRF座標系や、GPSで使われているアメリカの定めたWGS84座標系など数種類のものがあります。日常的におなじみなのはGPSですが、もともとアメリカが軍事利用目的で整備を進めてきた経緯もあり、万が一の際には米軍の都合で一方的に利用が制限される可能性もあります。このため日本では国際規格であるITRF座標系を測量の際に用いる測地系として採用しています。もっともこの2つの座標系の差は1mm以下で、実質的にはほぼ同じものとして扱って差し支えありません。

明石での子午線測量

 明石市での天文測量は1928年に最初に実施され、京都大学地球物理学教室の観測隊によって7月下旬より1ヶ月間の天測が行われました。上の図では省いてありますが、天文科学館北西の人丸山月照寺の境内を天文経度の東経135度子午線が通っていることが分かり、「トンボの標識」も当初はここに建てられていました。また1910年に当時の日本測地系による子午線上に建てられていた「大日本中央標準時子午線通過地識標」の石柱も、この天文測量の結果を受けて、大蔵交番(子午線交番)前に移されました。

 第二次世界大戦の米軍空襲でトンボの標識も被害を受け、その復旧に向けて1951年5月に子午線標識位置の再観測が実施されました。観測に当たったのは京都大学宇宙物理学教室のチームで、このときの結果で、天文経度の東経135度子午線は、1928年の観測より11.4m東を通っていることが分かりました。この差は観測に用いた時報によるものと言われているそうですが、経度にして約2秒強、時間にすると約0.15秒に相当します。1960年に開館した明石市立天文科学館は、この1951年の観測に基づいた子午線上に建てられています。トンボの標識も月照寺の境内から、現在の天文科学館の北側に移されました。日本測地系の子午線からは、約370m東側になります。

 測地経度による子午線は測地系の基準が変わればそれに伴って移動しますが、天文経度の子午線は観測地点固有のものですので、日本測地系から世界測地系への移行に関わらず、変化することはありません。 

 明石市での天文測量の経緯については下記の参考資料にあげた冊子に詳しい経緯が紹介されていますので、興味のある方はご一読ください。

(2010.12.28 数値に誤りがありましたので、修正しました)
(誤)「天文経度の東経135度子午線は、1928年の観測より11.4m東」
(正)「天文経度の東経135度子午線は、1928年の観測より11.1m東」

(誤)「経度にして約2秒強、時間にすると約0.15秒に相当」
(正)「経度にして約0.4秒、時間にすると約0.03秒に相当」

【参考資料】
『明石市立天文科学館の40年』,明石市立天文科学館編(2000)
『明石を科学する』,神戸新聞明石総局編(2000)

(2001.10.1記/2010.12.28改訂)

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