塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて
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日本に時差があった頃

かつての「西部標準時」の範囲

「日本西部標準時」

 日清戦争後の1895年から、第二次世界大戦敗戦の1945年まで、日本は台湾を植民地支配下に置いていました。

 台湾支配を始めた1895年12月、「明治二十八年勅令第百六十七号(標準時ニ関スル件)」を公布。それまでの東経135度線をもとにした標準時を「中央標準時」とし、新たに東経120度線をもとにした「西部標準時」を設置することを定め、1896年1月より施行されました。西部標準時の適用範囲となったのは、台湾および澎湖列島と八重山および宮古列島。日本中央標準時より-1時間、グリニッジの世界時より+8時間の時刻が使われていました。

 もっとも日本列島の一部の地域だけ一時間の時差を設けることはかえって不便が多かったのか、1937(昭和12)年9月、「昭和一二年九月二四日勅令第五二九号」によって前記の勅令第百六十七号が改正され、西部標準時は廃止されてしまいました。この41年間だけ、日本国内に2つの標準時が存在していたことになります。

 以下に1937年に改正された勅令を示しておきます。

明治二十八年勅令第百六十七号(標準時ニ関スル件)
(明治二十八年十二月二十八日勅令第百六十七号)最終改正:昭和一二年九月二四日勅令第五二九号

第一条  帝国従来ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト称ス
第二条  削除
第三条  本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス
附則 (昭和一二年九月二四日勅令第五二九号)
本令ハ昭和十二年十月一日ヨリ之ヲ施行ス

一つの標準時でも「中央標準時」!?

 実は1937年の改正では、西部標準時に関する条文(第二条)は削除されたのですが、「標準時」を「中央標準時」に改めた第一条はそのまま残されてしまいました。そのため標準時が一つしかない現在でも、法令上は「中央標準時」と表すのが正規の表現となっています。あまりなじみのない表現ですが、国立天文台が発行している「理科年表」では、法令に基づいて「中央標準時」の表記をとっています。

 もっとも英語表記では"Japan Standard Time(JST)"が一般的ですし、天文ファンになじみの深い誠文堂新光社の「天文年鑑」でも「日本標準時」をとっています。

東経135度上子午線に建つ標識やモニュメントでは、

「日本中央標準時」派
小野市・社町・黒田庄町・夜久野町・旧網野町(京丹後市)
「日本標準時」派
東浦町・明石市・神戸市・三木市・西脇市・旧山南町(丹波市)・旧氷上町(丹波市)

 と、お堅いはずの地方自治体が建設に携わったものが多い割には、「日本標準時」表記をとるものが優勢です(戦後建てられたもので分類)。

 実状からすれば「日本標準時」で十分だと思うのですが、日常生活に影響があるわけでもないので、当分法的には「中央標準時」の状態が続くのでしょう。

その他の日本の標準時

 第一次世界大戦後の1919年から第二次世界大戦敗戦までの間、日本は北太平洋の「南洋群島」(赤道より北側の島嶼)を、当時の国際連盟より委任統治領として預かっていました。直接の日本の領土ではありませんが、この南洋諸島の標準時は、東経135度子午線を「南洋群島西部標準時」、東経150度子午線を「南洋諸島中部標準時」、東経165度子午線を「南洋諸島東部標準時」として用いていました。

 また現在南極に置かれている「昭和基地」(東経39°35'24")と「ドームふじ観測拠点」(東経 39°42'12")では、世界時より+3時間の時刻が使われているそうです。

【参考資料】
『明石を科学する』,神戸新聞明石総局編(2000)
『時と暦の事典』,内田正男著,雄山閣(1986)
「日本の標準時」ホームページ
「史跡と標石で辿る日本の測量史」ホームページ
「法令データ提供システム」,総務省行政管理局

(2001.10.1記)

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