塩屋天体観測所プラネタリウム・天文台訪問記
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金子式プラネタリウムを見てきました
(和歌山市立子ども科学館)

金子式プラネタリウム

金子式プラネタリウム

高城武夫さんのこと

 高城武夫さん(1909-1982)のことを知ったのは、日本標準時子午線を訪ねる資料集めのさなかでした。

 日本初のプラネタリウム、大阪市立電気科学館の天文部主任を務めた高城さんは、同館退職後、1958年に私財を投じて自宅敷地内に「和歌山天文館」を開設。自ら設計した8mドームでプラネタリウムの投影を始めました。

 明石の天文科学館に先立つこと2年、「日本で5番目のプラネタリウム」として注目を集め、県内の多くの自動が見学に訪れたそうです。

※日本で5番目(常設館)……1番目・大阪市立電気科学館(1937)、2番目・東日天文館(1938)、3番目・五島プラネタリウム(1957)、4番目・岐阜プラネタリウム(1958)。

 1981年に現在の和歌山市子ども科学館が開館し、翌年に高城さんが亡くなられたこともあって、和歌山天文館もそれと時を同じく閉館されたのでした。

 この高城さん、とっても面白い人で、プラネタリウムの運営の傍ら、星の本を書いたり、教科書の監修をしたり、いろいろな「天文教具」を考えたり、とにかく多才な方だったようです。昔懐かし天文少年の工作題材となった「ミニ・プラネタリウム」も高城さんの考案です。現在も再設計された型紙がダウンロードできますので、下に紹介しておきます。

 おっとっと、話が飛んでしまいました。そうです、その高城さんが私財を投じてつくられた和歌山市天文館に納入されたのが「金子式プラネタリウム」なのです。

金子式プラネタリウム

 金子式プラネタリウムは、名前の通り、金子功さんの考案したプラネタリウムです。

 恒星投影機の表面に、恒星の配置通りに小穴を開けて星空を映し出す「ピンホール式」というタイプ。1953年に名古屋の東山天文台で一ヶ月間公開したことがあったそうです。なんと五島プラネタリウムより前に国産プラネタリウムが生み出されていたのです。もちろん五藤光学やコニカミノルタプラネタリウムよりずっと前のこと。

 この金子式プラネタリウムが本格的に設営されたのは1958年の和歌山天文館が最初となります。その後1971年に御園天文科学センター(愛知県)にも納入され、その他に直径10〜12mドーム用のものも製作されたとか。

 私が知っていたのは御園天文科学センターにあるもので、写真を見ると、ツァイスのZKP-1投影機を白く塗ったような姿をしていました。この金子式は恒星投影機こそピンホールですが、月・惑星投影機がついていて、むしろZKP-1よりツァイスI型に近いかもしれません。比べるものがツァイス製しかないというのがすごいところで、手作りでそんな機械をつくってしまった金子さんも、すごい人です。メガスターの大平さんもそうですが、どうもたまにこういうすごい人が現れるみたいですね。

参考文献: 「プラネ旅ウム 1 金子式プラネタリウム」,長尾高昭,135°の星空 No.111(2000)
『地上に星空を』伊藤昌市, 裳華房(1998)

和歌山の金子式プラネ

金子式プラネタリウム・少し寄って撮影

金子式プラネタリウム

 和歌山天文館で使われていた金子式プラネタリウムは、2005年に和歌山市立子ども科学館に移され、展示されています。

 「金子式南北天球ダイヤ型」と言うのだそうで、御園天文科学センターのものとは違って、真っ黒に塗られていて、恒星投影機が南天用・北天用の2つついたアレイ状をしています。鉄板を加工してつくったと思われる恒星投影機は多面体になっていて、これが「ダイヤ型」の由来かもしれません。

 駆動系は日周運動軸と緯度変化軸の2軸で、歳差軸はありません。

 補助投影機は、私が見た限りでは、太陽投影機、昼光投影機、夕焼け投影機、赤道投影機、黄道投影機、子午線投影機……がついていました。

 最初からそうだったのか、後の改造でそうなったのか、電気コードが露出してはい回り、電源タップがむき出して取り付けられたりして、無骨さというか、手作り感満点の迫力を醸し出しています。

 和歌山市立子ども科学館の展示では、大きなガラスケースに収められているのですが、よーく見ると恒星投影機の中の電球には灯が点されているんです。ピンホールの穴から、チカッ、チカッと星の光が眼に飛び込んできます。投影機の息吹を感じる、うれしい心遣いです。

金子式プラネ・西側から撮影 金子式プラネ・北東側から撮影

金子式プラネタリウム(西側から)

金子式プラネタリウム(北東側から)

コンソール

解説台 操作卓

客席側から見るとスマートな解説台

操作卓は手作りスイッチの群れ

 私が訪れた2005年2月は高城武夫さんの特別展が開催されていて、金子式プラネタリウムの解説台も展示されていました。客席側から見るとスマートな外見なのですが、操作卓側に回ると、スイッチの群れ。

 スイッチがたくさんあるのはどこのプラネのコンソールでも一緒なのですが、ここで圧倒されるのは、やはりその手作り感。ありとあらゆる部品を代用品に用いていて、右側写真の中央やや左下の黒い四角い物体に至っては、なんと足踏みミシンのペダルだったりします。タコ足配線一歩手前の状態で電気コードが張り巡らされ、実際に使いながら少しずつ改良を加えていった様子がうかがえます。

架台が木製のフォーク式経緯台のスライド投影機 架台が赤道儀のスライド投影機

スライド投影機その1

スライド投影機その2

 感動ものはスライド投影機群。左の写真のものは、架台が木製のフォーク式経緯台(もちろん自作)で、垂直方向の微動が、ラジオのチューナーのダイヤルとベルトを転用しています。右の写真のスライド投影機は、なんと架台が赤道儀。とにかく独創性というのか、生活の知恵のにじみ出たような工夫がいっぱいです。

最終投影

 この金子式プラネタリウムの最終投影は、2004年12月11日に行われました。

 私はインターネットでこの投影会のことを知っていたのですが、仕事の都合で参加することはかないませんでした。でも上記のリンク先で、じゅうぶん雰囲気を伺うことができます。最終投影会では、高城武夫さんご本人のナレーションのテープを使って、投影したそうです。

 子ども科学館の津村光則さんの話では、この金子式プラネタリウム、恒星投影機は点灯するのだけど、駆動系は動かせないとのこと。通電するとモーターは動くそうなのですが、動力を伝達するベルトが摩耗したり延びたりして、いけなかったそうです。

特別展「高城武夫と和歌山天文館」

特別展・高城武夫と和歌山天文館

 和歌山市立子ども科学館では、2004年12月25日から2005年5月15日まで、特別展「高城武夫と和歌山天文館」が開催されていました。

 金子式プラネタリウムに加えて、高城さんの著作や、天文教具の数々も展示されています。最初のところで触れたミニ・プラネタリウムはメガスターの大平さんも子どもの頃に製作して、それでプラネタリウムの基礎を学んだそうです。

 2005年の2月までは、毎週土日に、最終投影会で使用された高城武夫さんの録音テープを使った特別投影が行われていました。高城さんの声に合わせて現在のミノルタMS-10投影機で星空を映す趣向です。

 これがなかなかのもので、旧大阪市立電気科学館でならしただけあって、高城さんはさすがの名調子。投影前のアナウンスを娘さんが務められているのがほほえましいです。なにせ和歌山天文館、高城さんの自宅の庭にあったのですから。

 録音が1961年の冬なので、星空もそれに合わせたセッティング。惑星はスライドで映したり(惑星投影機を使うと通常投影との兼ね合いで大変なことになります)、いろんな工夫をしながら投影がすすみます。

 1961年というと、ガガーリンが宇宙飛行をした年で、まだまだ宇宙開発の黎明期。天文学でも、その後の観測でずいぶん明らかになったことが多く、逆に言うと1961年の投影では恒星の距離など今と違った数字がたくさん出てきます。

 おっと、人工衛星も飛んできました。なんと、エコー衛星だそうです。まるでタイムスリップ気分。ここでちゃんと動く星を映す子ども科学館の演出も心憎いです。

 そうこうしているうちに、なんと南半球の星空の投影に移っていくではありませんか。金子式プラネタリウムの機能をフルに生かした投影です。今でもプラネタリウムの南天投影は心ときめくもの。海外旅行が高嶺の花だった1961年の南半球の星空が、どんなに当時の人々の心を揺さぶったことか。

 残念ながら、高城さんの解説テープ、30分ほどのところで途切れていて、最後まで聴くことが出来ません。この録音テープ自体もほとんど偶然発見されたのだそうで、当時の投影の様子をここまで伺い知ることができ、雰囲気を感じることができただけでも幸運なことです。投影はたぶんこのあと、明け方の星空へ話が移り、日の出で終わるのだろうな〜なんて思っています。

 私が訪問したとき、ちょうど高城さんの親類の方々が見えられていて、「お父さんの声、若かったねぇ」なんて会話を交わされていました。ドームの外のコンソール展示を見ながら、「そういえばこんなのもつくっていたわねぇ」と感慨深げなご様子。

 一台のプラネタリウムから、いろんなものを感じた一日でした。

(2005.2.26訪問/2005.3.24記 福田和昭)

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