塩屋天体観測所東経135度子午線を訪ねて子午線道中膝栗毛
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明石高校の観測台を訪ねる

(2006年7月2日訪問/2006年8月2日記)

明石高校正門

 兵庫県立明石高校は1923(大正12)年に開校した、歴史のある学校です。

 高校野球ファンの方なら、この学校の名前を聞いたことがあるかもしれません。球史に刻まれた延長25回の死闘。1933(昭和8)年の夏の甲子園準決勝で中京商業(現:中京大中京)と熱戦を繰り広げた明石中学が、現在の明石高校です。

野球部の「闘魂」碑 刻まれた延長25回の記録
野球部の「闘魂」碑 延長25回を刻む

 って、高校野球のために明石高校に行ったわけではありません。実は明石高校には、東経135度子午線とは切っても切れない「あるモノ」があるのです。

 今回は同校のOBで、天文科学館友の会会員の春田さんの案内で、明石高校を訪ねてみました。

天文測量で測った明石の子午線

 明石は「子午線のまち」です。

 でも東経135度子午線は兵庫県と京都府(と和歌山県)を貫いているのに、なぜ明石が「子午線のまち」なのでしょう。もちろんそれには、背景があります。

 まず1910(明治43)年に、明石郡小学校長会が、明石市内(現:子午線交番前)と神戸市西区(当時は明石郡平野村)の2ヶ所に、子午線標識を建てました。日本最初の子午線標識です。この標識は地図を元に建てられたものでしたが、そののち日本経緯度原点に修正が加えられたため、標識は子午線から離れた場所になってしまいました。

 事態が動くのは1928(昭和3)年。

 県立明石中学校の山内佐太郎校長が、子午線標識を正確な場所に建て替えることを提唱したのです。昭和天皇の御大典記念事業というのが、時代背景を感じさせます。その調査は京都大学の野満隆治博士に委嘱されたのでした。

山内佐太郎の碑
構内にある山内先生の碑。名校長だったそうです。

 ここで野満博士がえらかったのは、地図ではなく、天文測量で子午線の位置を確定しようとしたことです。

 日本標準時子午線なのだから天文経度で決めるべき。

 実は地図上の東経135度と、天文測量での東経135度、少しズレがあるのです。日本標準時子午線と言うからには、正確にグリニッジから9時間の時差の場所であるべきだ。地球の自転を元に時刻と場所を表すのですから、天文測量による経度が意味を持ってくるのです。

 子午線が通過する市町は多々あれど、ここまでこだわり抜いたのは明石だけ。山内校長の提案と野間博士の決断が、明石を「子午線のまち」にする大きな財産となりました。

1928(昭和3)年の天測

 1928(昭和3)年7月、野満博士と4人の助手が、天文測量を開始しました。

 約一ヶ月間、明石中学に泊まり込んでの観測です。盛夏の時期で、夜は虫に悩まされながらの観測だったのではないでしょうか。

 観測に使われたのは子午線儀という機械です。星の南中時刻を測定するためだけにつくられた望遠鏡です。ある星が観測地点で南中した時刻と、グリニッジで南中した時刻を比べれば、その土地の経度を計算することが出来ます。

 1時間の時差が経度15度分ですが、1秒の差が15秒分、明石付近では約375mにもなります。このため時刻の測定は厳密を要します。観測誤差を少しでも減少させるため、複数の恒星の南中時刻を、約一ヶ月もの間、観測したのでしょう。

ザルトリウス子午儀
天文科学館に展示されている1928年天測の子午線儀

  天文科学館には当時の観測で使われた子午線儀が展示されています。ザルトリウス子午儀と呼ばれているもので、口径は37mm。決して大きな望遠鏡ではないのですが、南中時刻の測定ですから、暗い星を観測する必要は少なく、精度と可搬性が重視されたのだと思います。

 観測終了後は、2ヶ月に渡ってデータの分析が行われ、同年11月、明石中学の観測点の経度が東経135度0分18.48秒、東経135度子午線は観測点から470.4m西を通過することが発表されたのでした。

 長らく明石のシンボルだったトンボの標識はこの観測結果に基づいて当初、月照寺境内に建てられたものです。また国道2号線の標識子午線交番の標識(移設)が、このときの天測結果による子午線上に建てられています。

観測台

 その天測で使われたという観測台が、現在も明石高校の敷地内に残っています。

観測台北面

 実は「そういうものがあるらしい」「昔はあった」「話は聞いたことがある」という噂は耳にしていたので、2年ほど前に探しに行ったことがあるのですが、あえなく敗退。

 でも、今回はあっさり見つけてしまいました。「あのあたりがアヤシイ」という情報は、やっぱり同校OBで友の会会員の塩岡さんからの提供。やはり現地人のネットワークは違います。

観測台西面 コンパスと観測台
コンクリートの塊 東西南北にはこだわっていません

 銘板がなければ、ただのコンクリートの塊です。これでは知る人が少ないのも仕方ないかもしれません。

 コンパスを持ち合わせていたので、方角を確認したのですが、東西南北を合わせた様子はありません。子午線の観測の場合、観測台の南北よりも、基線をどれだけきっちり取れるかの方が重要なので、特にこだわらなかったのでしょう。

1928年の天測風景(明石市立天文科学館展示より)
天文科学館に展示されている1928年天測の写真

 天文科学館の子午儀のコーナーには、1928年天測の一般公開風景の写真が展示されています。観測期間が約一ヶ月に及んだので、途中でこのような企画もセットしたのでしょう。写真中央下、布地を掛けられているのが観測台で、その上にザルトリウス子午儀が置かれているのが確認できます。ちなみに今回、同行した春田さんによると、写真中央後ろの手ぬぐいを巻いた人が、私に似ているそうです。

観測台記

 観測台の銘板には「観測台記」が刻まれています。以下に紹介しておきます。文中漢字は新字体に、カタカナはひらがなに直してあります。

観測臺記

 観測台記
昭和三年十一月、今上天皇即位大典を挙げさせ給ふ
明石市教育会は記念事業として、日本中央標準時子午線通過地を天測せんと企て之を京都帝国大学理学博士野満隆治氏に委嘱す 依て同氏他助手四名は同年七八月の交一ヶ月間明中塾に起臥し此の観測台に経緯儀機を据え具さに天測作業に従事したる結果更に精算労苦に服すること二ヶ月余の後恰も即位大典の当日を以て
天文経度東経百三十五度の線は此の観測台の南北線の西方四百七十米四となることを測定せられたり
(この後、和歌が書いてあるのですが、私には読めませんでした)
明石市教育会長 従五位勲六等 山内佐太郎 誌

(2006年7月2日訪問/2006年8月2日記)

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