塩屋天体観測所|東経135度子午線を訪ねて|子午線道中膝栗毛
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2002年の測地系移行に伴って、日本最南端の東経135度子午線通過地となった友ヶ島。
ところが1980年代に、すでに友ヶ島に子午線標識が建てられていたという話があります。
旧・和歌山天文館を運営されていた高城武夫さんが徳田純宏さんとの共著で刊行した『喜の国』(1982年、ゆのき書房)という本があります。その中に「日本の標準時の基線が『友ヶ島』に」という一節があり、以下のことが記されています。
友ヶ島は和歌山市の西端にある加太町の漁港から西へ汽船で半時間の距離にある観光の島々ですが、最西端の島上に紀淡海峡の航路を護る友ヶ島灯台があって、すぐ構内に東経百三十五度〇分〇秒の標石が立てられております。つまり和歌山市の西端は、中央標準時を表示する日本のまん中という「天の時」を保有しているわけなのです。
高城武夫・徳田純宏『喜の国』(1982,ゆのき書房) ※赤字は福田による
全ての謎は、ここから始まったのでした。
高城さんが『喜の国』を記されたのは1982年。
当時は日本測地系が使われていましたので、国土地理院の地形図上の東経135度子午線は友ヶ島水道の海上を通過していました。ところが高城さんは、
この東経百三十五度〇分の経線は、北は但東町(兵庫県)−夜久野町(京都府)−明石市をへて、南は友ヶ島(和歌山県)を通る地図上の一線ですが、これらの地は、我が国の全ての生活も交通も通信も銀行も会社も、ここの標準タイムによって営まれているわけです。
高城武夫・徳田純宏『喜の国』(1982,ゆのき書房)
と、すでにこの当時、友ヶ島に子午線が通過していると記しています。これはいったいどういうことなのでしょう。
明石市にある明石市立天文科学館は、東経135度子午線上に建てられています。ところがこれが、地形図上の東経135度子午線からずれていることは、地形図好きの人には知られた事実でした。
天文科学館は天文経度で測った子午線の上に建てられているため、日本測地系の子午線からは約370m東側にあります(→明石市立天文科学館・よくある質問)。
この天文科学館を通る天文経度の子午線を南に延長すると、友ヶ島の西端部を通過しているのです。友ヶ島灯台から約80m東側の地点、灯台のある丘の東側斜面あたりになります。
(引用図は国土地理院1/25,000地形図『加太』1999(平成11)年発行)
日本標準時を示す子午線としては、日本測地系による測地経緯度よりも、天文経度による子午線の方が、意に叶ったものといえます(→天文経緯度と測地経緯度)。天文測量による経緯度を決めるには、厳密にはその地点で天測を行う必要があるのですが、明石と友ヶ島はさほど離れた場所ではないので、大きな差はないと考えられたのでしょう。高城さんが記した「友ヶ島(和歌山県)を通る地図上の一線」は、明石の天文科学館を基準にした子午線とすれば説明できます。
2007年現在では汚れと劣化でほとんど判読不能になっていますが、友ヶ島の野奈浦桟橋の近くにオリエンテーリングのパーマネントコース「友ヶ島」のマスターマップが掲示されています。
O-MAP「友ヶ島」2005年2月撮影 | 「子午線真下」の記載があります |
このO-MAP(オリエンテーリング用地図)に記されている「コースの特徴と注意事項」に
紀淡海峡に浮ぶ、子午線真下の緑あふれる自然の宝庫友ヶ島。
という一文があります。地図右下に記載されている調査年は、インクの劣化で判読が困難ながら、1984年と読めました。友ヶ島を東経135度子午線が通過していることは、1980年代には既に一部の人には知られていたようです。
※私も学生の頃に競技としてのオリエンテーリングをかじっていましたが、オリエンテーリングをやる人は大抵が地図好きです。
高城さんは友ヶ島灯台の構内に子午線標石があると記されています。
友ヶ島灯台があって、すぐ構内に東経百三十五度〇分〇秒の標石が立てられております。
高城武夫・徳田純宏『喜の国』(1982,ゆのき書房)
ところが21世紀の現在、この記述に該当する「東経135度の標石」は灯台構内に見あたりません。いったい高城さんは何をもって「子午線標石」とされたのでしょうか。
在りし日の「日時計台」2005年2月撮影 | かつて取り付けられていた日時計 |
基部だけになってしまった日時計台 | 上部の御影石は撤去されました |
灯台の構内にある標石めいたものといえば、かつて日時計が取り付けられていたという「日時計台」です。
2005年の時点では日時計が外された状態で残っていたのですが、その後「危険」ということで撤去され、2007年現在は基部だけが残されています。
野奈浦桟橋の旧・観光案内地図 2005年2月撮影 | 子午線と日時計台の説明があります |
現在は新しいものに取り替えられましたが、以前の野奈浦桟橋の観光案内地図(2000年設置)に以下の一文がありました。
灯台は、明治5年に点灯された石造りの建物で、明治の洋風建築として日本では数少ないものの一つです。この上を東経135度子午線が走っており、直下に日時計台があります。
また、加太在住の淡路宏さんは、「加太の散策」という文章の中で、友ヶ島灯台を以下のように紹介されています。
その西側の灯台は、1872年(明治5)に建設された8番目の灯台で、そばの日時計は子午線がこの真上を通っている。
淡路宏『加太の散策』(2004)
これらのことから、地元の方は、友ヶ島灯台の日時計台を子午線と関連づけて伝えてきたことが伺えます。
※一連の話の出所が、高城さんの『喜の国』だったという可能性もあります。天文科学館の経度が地形図上の経度とずれていることは、それなりの星好きか地図好きでなければ気付かないことです。ましてそれが友ヶ島にかかることを「発見」したのは、和歌山近辺の人の可能性が高いと思います。
それでは、この日時計台はいつ建てられたのでしょうか。
友ヶ島は戦前は要塞地帯として一般人の立ち入りが禁じられてきましたから、モニュメントとして建てられたのなら、戦後の建立と見るのが自然です。
ところが海上保安庁の方の話では「灯台ができたときに一緒につくった」とのこと。
日時計の銘文 | 灯台3階の鉄柱の銘板 |
それを裏付けるのが日時計の銘文。"West & Co Fleet St. London"と刻まれていて、イギリス製ということが分かります。友ヶ島灯台は日本でも最初期の西洋式灯台だったので、主要な機材はまとめてイギリスから持ち込んだのでしょう。灯台3階に灯火を支える鉄柱がありますが、そこにも"NEAR BIRMINGHAM 1871"の銘があります。日時計も同時期に友ヶ島に送られてきたものと思われます。
灯台に何のために日時計を置いたのか、ということについては、「日没や日の出に合わせて灯火の点灯を行っていたので、正確な時刻を知るため」なのだそうです。
この周辺の事情については博物館明治村のサイトに解説がありました(博物館明治村|ala 明治村 日時計が伝えた時刻)。僻地に建設されることが多い灯台は、電信で時報を送ることができないので、正確な時刻を知るために日時計を設置したのです。均時差を補正すれば誤差を1分以内に押さえることができたそうですから、灯台の点灯には十分な精度といえるでしょう。
消灯ノ刻限ハ……中略……燈室ノ時計ニテ定ムヘシ右時計ヲ精密ニナシ置為メ首員ハ少クモ一週間ニ一度其時刻ヲ日時計ノ時刻ニ比較シ各所ニ備ヘ置ク時差表ノ如ク日時計ヨリ増減スヘシ且住家ノ時計モ右同様精密ニナシ置クヘシ
『守燈方示教総則書』第五章、第二条「日時計ヲ以テ時刻ヲ制定スル事」(1881) ※明治村サイトより引用
上記に引用した「守燈方示教総則書」には、一週間に一度は灯台内と住家の時計を日時計と比較して、均時差も補正した時刻と合わせるよう定められています。灯台の日時計は、灯台運営に不可欠な重要設備だったのです。
「古い大きな灯台には、たいてい日時計がありますよ」と海保の方。ということで以前に撮った写真を探してみたら、ありました。
右の写真は島根県の美保関灯台(あの美保関隕石が落ちた近所)の日時計台です(2005年9月撮影)。写真を撮ったときは日時計が載るものとは知らなかったのですが、「何かどこかで見たような」ということでカメラに収めて置いたのでした。2005年当時は日時計が撤去されていましたが、2006年に復元されたそうです(aisimu2 美保関灯台)。
その他にも日時計のある灯台を調べてみたら、それほど珍しいものではないことが分かりました。
ちょっと検索したらこれだけ見つかるので、他にも多くの日時計が、灯台と共に設置されたものと思われます。
当初は灯台と不可分だった日時計も、機械時計の精度の向上や、無線による時報が整備されるに伴って、徐々に存在意義が薄れていきました。やがて友ヶ島灯台は1958年に無人化されます。常駐職員が引き上げた時点で、灯台の時刻管理という日時計本来の役割も一区切りついたといえるでしょう。
友ヶ島灯台の日時計台は、もともとは東経135度子午線と無関係に建てられたものです。それがどうして子午線と結びついて語られるようになったのでしょう。
(旧)山南町の子午線標識 | 西脇経緯度標わきの日時計 |
子午線標識は、日時計をセットにしたものが多くあります。正確を期すには均時差の補正をする必要があるものの、日時計の示す時刻がそのまま日本標準時になるため、日本標準時子午線の持つ意味を端的に表現できるからです。
子午線標識の多くは厳密に東経135度上にあるわけではなく、基準とした測地系の違いなどの諸事情で、数十〜数百mのズレがあることは珍しくありません(東経135度子午線標識一覧)。友ヶ島灯台の日時計台は、明石基準の天文経度の子午線から約80mほど西に離れた程度(世界測地系なら約40m東)の場所にあり、子午線標識としての条件は備えています。
ここから先は私個人の推測です。
高城さんはおそらく、友ヶ島灯台の日時計台がもともと子午線とは別に建てられた経緯をご承知だったのではないかと思います。
つまり和歌山市の西端は、中央標準時を表示する日本のまん中という「天の時」を保有しているわけなのです。
高城武夫・徳田純宏『喜の国』(1982,ゆのき書房)
長らく天文教育に力を注がれてきた高城さんのこと。明石の天文測量を基準とした日本標準時子午線が友ヶ島を通ることを知り、子午線という生の教材を、和歌山の人々にも縁のあるものとして紹介していこうと考えられたのではないでしょうか。
そして、灯台の無人化と共に本来の役目を終えた日時計が、たまたま日本標準時を指し示す場所に建っていることに気付かれ、目には見えない子午線を可視化する子午線標識としての新たな役割を持たせようとされたのではないでしょうか。
きれいさっぱり終わりたいのですが、まだ疑問点が一つ。高城さんは以下のように
友ヶ島灯台があって、すぐ構内に東経百三十五度〇分〇秒の標石が立てられております。
高城武夫・徳田純宏『喜の国』(1982,ゆのき書房)
「標石」という表現を使われています。日時計があるのなら、「日時計」と書けばよさそうなものですが、あえて「標石」としたのはなぜなでしょう。高城さんが『喜の国』執筆前に友ヶ島に足を運ばれた当時、すでに日時計が撤去されていたとしたら、上記の私の推測も、ちょっと怪しげなものになってきます(もともと何の根拠もないのですけど)。
何はともあれ、友ヶ島灯台の建設から135年。付属物の日時計台を巡って、これだけ振り回される輩がいようとは、友ヶ島灯台設計者の「日本の灯台の父」ヘンリー・リチャード・ブラントンも大いに面白がっていることでしょう。
(2007年11月8日記)